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 「河野洋子所蔵写真」から(2) 89
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  「賀川資料館の雑芸員日誌」

  
 前回は写真でなく、賀川から届けられた書簡を紹介した。
 河野洋子さんは戦前、ご家族と共に南京で過ごされ、そこで賀川との出会いがあった。敗戦後昭和22年に徳島に戻り、旧制名西高女を出て、さらに羽仁もとこの自由学園で学び、昭和24年から4年間、神戸市長田区四番町4丁目の「神戸市立長田保育所」で働かれた。今回はその当時の写真2枚である。


 写真1

 「天隣館」正門前で「神戸市立長田保育所」卒園式。昭和26年ごろ? 河野先生は最後列左2人目、その左隣は中野とよの先生(結婚後「大岸」)。大人前列左端は斎木ミツル先生、2人目は辻本四郎牧師、右端は友愛幼児園主任の宮川先生。他の3人の男性は神戸役所の方々。河野先生は、13人の子供たちひとりひとり、名前を挙げて御話になった。


 写真2

 これは昭和27年の卒園式では? 写真1の子供たちの服装とこれとは、なぜか大きな変化が見られる。後ろに並ぶ6人の男性は、みな神戸市の関係者で、左2人は河野先生と斎木先生、左端が中野先生。



 河野さんのご自宅では、珍しい写真をたくさん見せて貰い、1963年に賀川記念館が開館された頃のものや、まだ青春時代であった我々の写真も残されていたりして、同席された近藤良子さんと宮本牧子さんともども、その一枚一枚に思い出話が弾み、時間を忘れた長居となったことは、前回にも記したとおりである。
 河野さんからは、貴重なそれらの写真をすべて預けてもよいと申し出られたのであるが、私にとってはとりあえず、わがまち番町に関係するものだけを選ばせてもらいお預かりした。大切なほかの写真は、来年春に開設される「賀川ミュージアム」の受け入れ準備が整えば、あらためてそれらを拝見させていただくことになった。



 既に度々取り上げてきたように、賀川は100年前、神戸「葺合新川」に移り住み、新しい生活を始める一方、早い段階から「長田番町」方面にも路傍伝道を試みており、大正期には馬島医師一家が地元有力者の協力を得て、五番町の住宅を借りてイエス団の友愛無料診療所を開き、芝八重医師もその働きに打ち込み献身的な働きをしてきた。
 そして五番町のこの診療所とは別に、昭和の戦中になって賀川は、四番町の元料理屋さんの自宅だったといわれる二階建ての大きな旧家を取得して、それを「天隣館」と名付けた。その天隣館に最初に住み込んだのが斎木進之助夫妻であることなども、少し触れておいた。
 イエス団の活動は、これまで殆ど「葺合新川」を中心に取り上げられてきたことにもよるのであるが、五番町の診療所と四番町の天隣館とがたびたび混同して語られたり、天隣館と三番町の神視保育園並びに天隣乳児保育園とが混同されてきたりもしていた。
 


 付記
 本日は午後3時から、再建された「賀川記念館」の献館式(竣工式)が行われた。曇り空で小雨の降る天候であったが、写真3と4は記念館の今日の外観、写真5は4階に設けられたステンドグラスの三つの作品のひとつ。現代のステンドグラスの製作者として名高い三浦啓子氏の作品で、式典会場にもお見えであった。そして写真6はメイン会場を窓越しにして、隣室のモニター画面を最後列で眺めたもの。第1部「献館式」、第2部「見学会」、第3部「祝賀会」の順で、神戸市長ほか行政、地域、施設、教会関係など、200名を越える参会者で盛り上がった。
 祝賀会の最後の挨拶を行ったイエス団常務理事の村山盛嗣氏は、最初の記念館建設のとき、武内勝と共に大きな働きをされたことは、「武内日記B」で詳しく書き残されていたとおりであるが、この度の新賀川記念館の建設にも、賀川記念館館長の高田裕之氏や賀川督明氏らと共に、大きな困難を乗り越えて重責を担われた。二度にわたる記念館の建設という、この大役の完遂はまことに驚くばかりである。 


写真3

 2009年12月13日朝日新聞朝刊「神戸版」に昨日の賀川記念館完成の記事が掲載された。

写真4
   

                (2009年12月12日記す。鳥飼慶陽)




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