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 「武内祐一所蔵アルバムB」から(1) 77
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 「アルバムA」に続いて今回から「アルバムB」の1回目は、賀川たちが葺合新川で活動を開始した初期の「救霊団」時代のもの2枚と、あとの2枚は賀川豊彦一家が1926年に武庫郡瓦木村に移住した翌年(1917年)の「イエス団」の夏の取り組みのものである。
 写真1のほかは、武内自身が写真に説明を付している。すでに掲載したものもあるが、改めて順番に眺めてみたい。


 写真1

「アルバムB」の最初に貼られている写真で、掲載写真にはカットしているが写真下の部分は破れて欠けている。写真に写る小学生以下の幼い子どもたちは100人近くいる。賀川が真ん中に座り、地元の大人が3,4人、学友ふたりぐらいであろうか。ここには武内らしき若者も、また左端には若い女性の姿もある。いかんせん武内のコメントはない。場所は、写真2が「新川尻海岸」であるので、その辺りであろうか。


 写真2

 この写真は本サイト第6回で紹介したもので、広く知られているものである。
 武内が写真上部に次のメモを残していたことで、撮影の時と場所に加え、撮影の意図もはじめて判った。以下は第6回分の再掲である。
「大正三年七月賀川先生プリンストン大学入学のため新川尻海岸にて記念撮影」。だとすれば、豊彦とハルは新婚まだ一年少々、翌8月2日には、豊彦は留学のため神戸港から丹波丸で出帆するわけで、武内の記す如くこれは「壮行記念写真」ということになる。豊彦が旅立ってほぼ一月後(9月5日)ハルも神戸を離れ横浜の共立女子神学校で学ぶことになるのであるから、まさにこれは「賀川夫妻の壮行記念写真」ということである。
 なお、この写真の左下角には、小さな紙が張られ、名前が書かれている。それをもとにあらためて付記すれば、前列中央の二人は「賀川豊彦と春子夫人」。左端大人は「吉岡」。前列右端は「小田佳男」。その上は「伊藤平次」。最上段の学生は「平野」。その前は「徳憲義」。


 写真3

 有名な明石海岸の松の木を入れて写した記念写真。武内は写真左端上に「一九二七年 八・一四撮影 於明石海岸」と記している。賀川の一家はこのとき、瓦木村にいるが、この頃、タッピングを伴って日本代表として上海でのキリスト教経済会議に出発している。


 写真4

 これも写真3と同じく明石海岸にでかけた同じ時のもの。武内は右端上に「一九二七・八・一四 明石海岸公会堂下」と記している。          (2009年11月22日記す。鳥飼慶陽)



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