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 今回の書簡は、前回取り出した「神戸市灘道下ル東遊園地 東部労働紹介所 武内勝様 侍史」と表書きされ、「本所基督教産業青年会 賀川豊彦」と裏書された封筒の中に入れられた3通の書簡のうちの1通である。
 確信は持てないが、筆跡などからして多分この1通だけが当初、この封書にあったのではないかと思われる。封書に書かれた日付は「六月十日」とあり、消印は「?3.6.10」と見えるので、これも仮に「大正13年6月10日」に投函されたものとしておく。

 この書簡は「賀川原稿用紙」を用いて4枚に、賀川は記されている。
 豊彦がここに「私の愛している善い男」と書く「佐藤君」という青年は、武内が『賀川豊彦とそのボランティア』の中で「特に忘れる事のできないのは佐藤一郎氏であります」(266頁)として、次のように語り残していた人物である。

 「但馬の人でありましたが、幼い時分から東京に出て行って、あるところで就職して、長年働いたことによって一千円の貯金をいたしました。おそらくコーヒー一杯も飲まずに貯めた金であると思います。無駄使いを一銭もしないで貯めた、実に汗と脂との結晶であったのであります。
 その金を「全部新川に献金し、私はここで、奉仕をして働きたい」と申し出てこられたのであります。
普通、就職の時は、「月給は幾らか、就業時間は何時から何時か、公休日は何日か」等、待遇について問われるのであることは誰でも考えるところであります。また、その保障なくして生きて行けるはずもないのでありますが、自分が長年かかって貯めたところのものを全部出して、財産の全部を捧げて、猶喜んで一身を捧げ、奉仕するというような青年は、そんなにおるものではない。
 いろいろな相談は沢山ありましたけれども、こういう相談に参った人があったことは、イエス団に於いて特筆しなければならないことであったと思うのであります。」(266頁〜267頁)
 


 豊彦の文面は以下のとおり。

   武内勝様

その後色々御世話になります。さてイエス団の児童館の方を独立してやって行く運びが付いたことをうれしく思ひます。
然しそれに就て、私は佐藤君と堀川君(仮名)などの間に多少感情の衝突があるように感じます。どうですか?
先日、堀川君(仮名)が東京の青年会を訪問した時などは、あまりその態度に感心しませんでした。私に案内せずに、松沢村に三日も引篭もり、産業青年会には少しも手伝ひせず、私に案内せずに帰神するなど殆ど無茶です。あんなことで、神学生(3字傍点)などに推薦することは絶対に出来ませぬ。私はあの調子では、とても善き奉仕者として立つことは出来ないと思ひます。口では甘いことをいうても、愛の感化(4字傍点)は無いと思ひます。そして佐藤君に対しても実に失敬なことを云ふて居るようですが、それは大によろしく無いと思ひます。
「佐藤」は私の愛してゐる善い男で、私はあの人間を大に用ゐて行きたいと思ってゐます。仕事の出来る男ですから、佐藤君を神戸に置いておく以上、佐藤君を疎外することは私の堪え得ることではありませぬ。
堀川(仮名)が、失敬なことを云ふて居るようでしたなら、佐藤君に謝罪させて、佐藤君に「救済所」の事務を取って貰わねばなりませぬ。
独立は結構ですが、イエス団も発展が止まりますから、あまり堀川君(仮名)などの負担を重くしないでやって下さい。青年期の心理として、あまりはやら無いでやらせて下さい。
私は、佐藤君の心配してゐる手紙を見て、私の運動をうしろめたく無いようにするために、この手紙を書きます。
主にありて                     
    賀川豊彦
 


 賀川にも武内にも深い信頼を得ていた佐藤一郎氏については、はじめに挙げた武内の口述でよくわかるが、うかつにもそれ以上のことは知り得ていなかった。
 ところが佐藤一郎氏の奥様が、私たちが1966年から2年間「神戸イエス団教会」の伝道師として賀川記念館で働いていた時大きな影響を受けた、あの「佐藤きよ」さんであったことを知らされた。
 「佐藤きよ」さんのご長女・真部マリ子先生は、その当時からよく存じ上げ、私たちが長田区番町に住まいを移して生活を始める2年前(1966年)から、この地域に建てられたイエス団の施設のひとつ「天隣乳児保育園」で働かれ、1991年からはその園長として1997年まで、良いお仕事を続けてこられた方である。
 今回この書簡を読み解く必要もあり、このたび改めて数回お時間を頂き、真部マリ子先生とお会いして貴重なお話をお聞きすることが出来た。そして、大切にしておられる古いアルバムや珍しい資料など、いくつも拝見させていただき、お父様の「佐藤一郎」さんのお話を伺った。
 添付の写真は、古いアルバムの中の一枚で、佐藤一郎氏のご結婚の頃のものようである。

 マリ子先生によれば、佐藤一郎氏は1902(明治35)年6月12日、兵庫県朝来郡和田山村176番地に生まれ、1924(大正13)年に浜田きよ先生とご結婚。1927(昭和2)年に長女マリ子先生が、1929(昭和4)年に次女郁子さんが誕生。マリ子先生誕生の翌年1928(昭和3)、一郎氏は結核を発病され、養生を重ねられたが遂に、1937(昭和12)年4月11日、惜しまれつつ36歳という若さで、その生涯を終えられた。

 武内の所蔵していた『雲の柱』(大正14年2月号)をめくっていると、佐藤一郎氏の「神戸貧民窟日記」という貴重な記録が掲載されていた。佐藤氏のイエス団での生活とお人柄を髣髴させる作品であるが、そこにも賀川が「佐藤兄は、私の留守を守って貧民窟で苦闘して下してゐる同志です」と記している。
また、佐藤氏は「イエスの友会報」第7号(大正13年12月15日)と第8号(大正14年1月15日)にも「或癩病人の話」という、奇しくも出会う事のできたお方の丁寧な「聞き書き」の作品を、2度に分けて寄稿している。

 他にもまだ佐藤一郎氏の作品はあるかもしれないが、マリ子先生のお話では、一郎氏は読書家で、書くこともお好きだったようで、こまめに「日記」も書き残しておられ、現在もそれが大切に保存されているそうである。
 なお、私たちには特に思いで深い「佐藤きよ先生」は、賀川ハルと横浜共立女子神学校のときの同級生でもあったそうである。これらに就いては、次回に少し触れてみたい。(2009年11月9日記す。鳥飼慶陽)



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