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 お宝発見「武内勝日記B」(1)  昭和36年1月〜3月
お宝発見

賀川先生の献身の証し
貧民窟主題の小説書きたい
一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 これまで8回に亘って掲載した「武内勝日記A」は、戦前の昭和2年から4年のものであった。明治25(1892)年生まれの武内は、当時30台半ばの働き盛りの年齢であったが、それから敗戦を挟んで30年余りを経て、彼はすでに齢69才になっていた昭和36(1961)年の日記が、このたびの「玉手箱」に残されていた。武内勝の纏まった日記としては、生涯のうちこの2冊である。
 前者は「武内勝日記A」としたので、晩年のこの日記は「武内勝日記B」としておく。今回から4回に分けて取り出しておきたい。
 この日記は、添付のように、15センチ×10センチのハガキ型の簡易ノートが使用され、表紙には「昭和三十六年度 日誌 武内勝」と自筆されている。
書き始められた契機が何であったのかは判らないが、賀川豊彦が昭和35(1960)年4月23日にその生涯を終えていて、その翌年の元日からの日記であるから、武内たちは、賀川亡き後のイエス団継承の責任を担いつつ、懸案であった神戸の「賀川記念館の建設」という課題をかかえての、昭和36年の年初めであった。
 武内はこのとき、神戸市長田区三番町に開園したイエス団の「神視保育園」(昭和32(1957)年設立)の園長でもあった。


 昭和36年1月〜3月

1月1日 
礼拝に親子三人が出席した。
世界の平和を祈り、神の国の基礎の強化に就いて祈った。
午後、崎元待命氏を済生会病院に訪問し、祈って別れる考えであったが,同氏もまた祈り、ニッコリ笑った。先月二十九日は、病院より今日、明日の寿命と宣告された崎元氏が、今日は笑顔を見せて呉れた。

1月2日 
一麦寮に於ける修養会に出席した。
出席者は108名であったが、青年の多数であったことは頼もしく嬉しかった。

1月3日 
前日に引き続き修養会に出席し、午後は15分間の奨励をした。
賀川の弟子になって何をしたかと題し、賀川先生の指導を受け、愛の奉仕の真似で、三公の幽霊話と労働保険組合の組織に就いて、宮本兵太郎の負傷と財団法人イエス団の基本金五千万円積み立て、毛利金五郎にだまされて得たこと。
以上に就いて述べた。

神視、印鑑必要に就き(坂出のため)25
五時より財団法人イエス団理事会 賀川記念事業に千万円寄付を決定
坂出育愛館の借り入れ金は、二十日に再審議
小川牧師宅にて、1月2日11時、委員会開催

1月4日 
労働相談、出席職員祝賀 イエス団電話

1月5日 
神視出勤、園児出席数名 民生安定所訪問 年賀挨拶 帝国信栄
YMCAに於ける県下キリスト教信者教職員会に出席 職域伝道を何うするかを検討するためであった。
水戸司法書士に印鑑証明及び発送依頼
坂出育愛館手紙
県秘書課長電話

1月6日
 神視出勤 今日も園児出席は十人位で少数であるままだ。正月気分で休むのであろう。兄弟が学校休みの関係もあると思う。
労働相談出席 栃木汽船の労働組合長より上位団体の援助に就いての相談があった。組合の届出に就いても何も解っていなかった。
県秘書課長電話 賀川記念事業に壱千万円寄付に就いての報告のためであった。知事は壱千五百万円出して呉れと特に依頼された。

1月7日
 神視出勤 今日もまだ園児出席は十数名である。新しい保母さん今日から勤務した。
宇都宮来宅、高本氏が肝臓が悪くて静養しているとのことである。
賀状を出していない方からこれを貰ったので、その方々に賀状の礼状を数枚書いた。

1月8日 
家族合わせて三人で礼拝に出席した。
帰途、済生会病院入院中の崎元氏を見舞に訪れた。元日訪問の際は、自分で祈り且つニッコリ笑ったが、今日は目を閉じる元気もなさそうであった。愈々死が近づいた感が深かった。
見舞い者は、辻婦人、緒方婦人、住友姉と自分と妻であった。
崎元氏は、新川の子供の面倒をよく見た。自分の子と他人の子と区別もなく、よく一麦に伴われて来て遊ばせた。絶えず指導に努力していた。
氏ほど地区の子供の指導に努力した人はないと互いに語り合った。

1月9日
 労政事務所の分所長会義で出席し、ぜんざい会で御馳走になった。何れの会でも、辛党が中心になるものを、甘党の会であった。
夜、中村朝太郎氏が来宅し9時ごろまで雑談した。

1月10日 雨 
細川書記とイエス団理事会議事録整理
労政に於いて十二月分の記録整理をした。建物の修理及び塗装の為、机の使用が出来ないために整理がつかなかったものの整理であった。
大蔵省は、36年度の予算中、保母の給料15%増額を取り消したと言うので、東京の保母は当局に交渉していると朝日は伝えている。当局者の理解が足らぬ。

1月11日
 議事録を整理し、細川書記に保存方を一任した。

1月12日
 午前2時頃、崎元待命氏死亡の電報を受けた。
早朝イエス団に赴き、至急ボーイスカウトの関係者と協議懇談し、三者の合同葬のような形で、13日3時イエス団教会を式場として葬儀を行なうことになった。
夜遅くまで教会に残った。自分が葬儀委員長になった。
施設長会議は欠席し、川崎氏に代行して貰った。

1月13日
 今日も神視を休み、県にも出ず、葬儀のために終日イエスに詰めきることにした。また何かと相談事項が相当多くあった。
3時、式をはじめ、4時40分終了した。
会葬者は多く、イエス団教会創立以来、今日程多数が集まった事はなかった。
式辞もよく、よき証言となり、伝道にもなったと思う。
殊に、筒井姉が幼少の頃、崎元の世話になったことを思い出し、式に参列して信仰の告白をして呉れた事は、大きな収穫であった。
村山牧師のよい経験になった事も感謝であった。

1月14日
 馬見から寄越した誓約書の誓を清の字を使っていたので書き直しのため返戻した。僅かな不注意から大変な手数となる。
豊島に対しては、20日出頭の連絡をした。

1月15日
 家族3人が礼拝に出席し、午後は一麦教会の献堂式に3人とも出席した。
一麦に居住中は、地上げのために雨降り後は、川に流れて来た砂をすくい上げ、之をもって整地し、或いは高比良、或る共産党員等の失業者に、食事と電車賃を与えて、ガスを埋め立てた事もあり、十二年間の思い出が多く、殊に美邦の友人梅村氏が、教会の中堅となって、会堂建築の出来たことは、実に感慨無量である。

1月16日
 県に出勤したが、労働相談事項もなく、外交に出掛けたところに三島氏(仮名)が来所した。
彼は、賀川夫人から金を送ると言って送って来ないから、弁護士を依頼して事件にすると言った。三島氏(仮名)は無理な計画をしている。賀川の奥さんから、金を取るなど腑に落ちない。
神視で職員会議を開いた。主としてベースアップに就いてであった。もっと優遇の道はないかと考えさせられる。

1月17日
 伊藤歯科医で歯の治療を受けた。次の診療は来週の月曜日である。歯だけが自然に抜けるのではなく、全身が漸次衰えて役に立たなくなる。
老いる事は嬉しい事ではないが、予定されている運命では、長くてもう十年、更に長くて十五年程度であろう。
出来る限り、善い働きをして死にたいものである。
山部氏(仮名)に建物の権利証を返却した。彼も金に対しては実に無理をする男である。

1月18日
 職員給料を10月に遡及し15%の増俸を決定した。然し、公共の保育所に比較すれば殆ど半額である。
私設団体の職員は奉仕を旨としているが、待遇の点については、当局は実に無責任である。
全国の保育所従業員の恵まれる事を祈る。4万人の従業のために。
県に出勤した。細川書記来園、議事録に就いて。
奈良馬見より訂正文書来信。
崎元姉より礼あり。

1月19日
 坂出保育より河田保母主任来園、事務打ち合わせ。
協同牛乳の関係にて、高芝弁護士訪問。
奥山より借り入れたる原因、それに関する件に打ち合わせ。高芝弁護士の書記は、協同牛乳の負債の支払い要求は少ないので、会社に返す金が出来るという、有難い見込みである。
4時、崎元待命氏の遺族及び旧友人数名がイエス団に集まり、主として遺産の分配に関し協議した。崎元氏にはまことに複雑な家庭であって、金に欲が出ると収拾がつかなくなる。それが円満に解決がついて感謝であった。立会人は西尾、溝口、池田、村山、武内の五名であった。

1月20日
 11時、大阪小川宅でイエス団役員会を開催。
坂出の借入金、賀川記念事業に対する寄付金、四貫島教会の借入金などに就いて協議した。
イエス団に対する補助金の請求が、小川牧師を第一番とし、二番が吉田牧師、三番が吉田牧師代理で奈良馬見の要求である。
皆の要求を聞いていたら、二三年の内に基金はゼロになる。
早急にイエス団の助成規定をつくる必要があり、これは自分の責任である。
出席者、大川、田中、吉田、金田、小川、武内、本多、村山、河田、細川

1月21日
 財団法人イエス団寄付行為施行細則案作成に就き検討す。
基督教社会事業書面。

1月22日
 礼拝司会、役員会、菅野外1人来宅、料理学校につき相談。

1月23日
 歯科(入れ歯)。2時労使センター会議。高本来訪。

1月24日
 村山牧師電話。菅野氏来園。県厚生課。

1月25日
 歯科

1月26日
 伊川谷山林視察。
厚生課、厚生省提出書類につき打ち合わせ。
財団、福祉ともに理事長変更届提出のこと。尚、登記謄本4通添付

1月27日
 三浦氏及び知事と面談。2時
奈良馬見書類返送
財団法人イエス団より賀川記念事業に寄付する金額は、建築費の二分の一であるが、建築変更により増額した場合は、更に5百万円寄付金を増額することとした。

1月28日
 神野に出張し7,500坪の農地を視察した。将来養老院の施設でもすれば最もよき地と考える。坪当たり七八百円も安いと思う。

1月29日
 礼拝出席、午後高本を訪問。
夜九時まで二宮(仮名)の30万借入金について話し合った。

1月30日
 県秘書課長を訪問し、財団法人イエス団の寄付行為変更の認可申請について、本省交渉のため東京にある県出張所に行き、川上氏と厚生省に同道する打合せをした。

1月31日
 兵庫県労働保険組合に履歴書二通を書いて送付した。同組合も愈々財団法人組織となる。大正15年創立の時からの懸案であった。兎に角、組織化は結構である。
法人代表者変更届(大臣宛)作成した。原稿細川渡す。
賀川厚生事業団に金壱千万円也寄付申込み書を発行した。
水戸司法書士、財団、福祉ともに四通登記簿を依頼した。
財団法人、社会福祉共に理事長変更の届出を、厚生大臣宛県に提出した。

2月1日
 馬見の百万円借り入れ申請書の訂正で、馬見から速達書類を送付して来たので、直ぐに書類を訂正し、細川書記に渡した。明日県提出の予定。
入れ歯が出来たので、二三年はこれでものを食べるに支障がないことであろう。助かった。
本年の冬は、何十年目かの寒さである。事務室に練炭一個、300の電熱だけでとても寒い。しんから底から冷え込む。
細川の作成した議事録原稿を整理した。

2月2日
 三時、長谷川敞牧師の葬式に参席。
芦屋教会夫婦共に牧師であって、二人で二つの教会を建設し、これを牧していた。生涯を伝道に献げた尊敬すべき先生であり、また貧しき者を何時も覚えて、新川のためには毎年古着を集めて下さった。
イエス団に於いては、忘れてはならない恩人であり、協力者であった。

2月3日
 安藤石綿工業を訪問した。中小企業では何処へ行っても労働組合にはてこずっている。成績不良の者の解雇が出来ないためと、賃金値上げを恐れているからである。
松本姉は突然来園で、診療所を開設したいから善い医者があったら紹介して欲しいとの相談であった。医者は多いが、親切な医術の勝れた者はないと言う。皆欲が深いので、貧乏人から金を巻き上げるのが苦療であると言う。
県と打ち合わせの結果(月)川上氏と面会。

2月4日
 細川書記、事務連絡に来園、イエス団の印鑑を渡した。
田中氏の回答理事会に就いて。田中氏は、自分で役員会の費用を負担するから開催して欲しいと言う、熱心な役員である。
午後、高橋氏と面会。

2月5日
 礼拝後、佐藤姉と自分の妻と三人が、岸部氏を訪問した。
古い思い出話をして、旧友を更に暖かにした。語るも感謝、聞くも感謝であった。信仰の友をもつことが、殊に深き愛の交わりのあることが、幸せなのである。

2月6日
 県の東京事務所から川上氏が帰っているので、財団の関係で面会する予定になっていたが、同氏が多忙で秘書課の連絡がつかず、午後4時過ぎも尚連絡がつかなかった。二通話
中小企業退職金共済事業について勉強した。
近藤氏来園、土地に就いて懇談した。
久仁子の結婚につき、金のかからぬ方法を考えた。

2月7日
 高芝弁護士に訴訟資料を提出した。
6時、YMCAに於いて、賀川記念事業委員会に出席した。
寄付行為の第三条第四条が余りも貧弱と言うか、無定見に等しい。
事業計画がないので驚いた。新川で行なう事業で最も大切なものは、児童を一人前の人間に育て上げる事であるが、それは一言も触れていない事は遺憾である。少なくとも児童教化のため、学校の予習復習の指導をしなければならぬ。又不良防止の為には母の会、婦人会、婦人倶楽部等の組織、指導援助について努力し、多くの婦人の協力で児童を不良から守らなければならぬ。児童愛護運動をする必要がある。

2月8日
 県秘書課に於いて、村山牧師と共に川上主事と面会し、財団法人イエス団の寄付行為変更に就いて、厚生省より質問の点と変更の困難な点について説明があった。
財団の金を福祉事業に使用してはいけない。財団を解散して新しい財団を備えるか、社会福祉に全部寄付するか、この場合現在の財団関係事業を社会福祉と認められるのでなければならない。
現在の寄付行為をそのままとして新しい事業を起こすか、現在のものを一層拡張するか、上京し本省に出頭して係官と懇談の上ハッキリした線を出し、理事会に於いて審議しなければならぬことなった。
県出勤。村山牧師と寄付行為の第三条及び第四条につき協議し、変更する事とした。之で自分の願う点が加えられるので満足である。

2月9日
 朝から山田の山を見に行った。壱万三千坪ばかり安い土地があるというので視察したが、矢張り山であって利用価値が少ない。自動車賃400は無駄であろう。
金田牧師に電話で、財団寄付行為に就いて連絡した。
武田洋子主任保母を、基督教社会事業同盟研修会に出席する事を決定。2月21−23日 旅費2,500円を園より負担する。
YMCAにて記念事業に就いての専門委員会開催出席、金田牧師と財団寄付行為変更に関しての打合せをした。
委員会は24日大阪で開催される事になった。田中理事の熱で決定したようである。記念館の設計図は、素人が事業を知らない設計させられたから再検討を要することになった。

2月10日
 厚生省行きを16日に決定し、洲本出張を23日に。大阪に於ける委員会出席を24日と決めた。その間、15日は三木市出張である。
健康である限り用事は尽きない。仕合せな事である。
分所長会議で色々考えさせられたが、全国的に労働者の賃金は上昇し、殊に本年高校卒で15,000で、就職もあるという。
世は正に労働者の時代になりかけた感がある。失業がなく貧乏が追放されることは有難い事である。

2月11日
 昔の紀元節である。雲にそびゆる、歌を思い出す。
年中で一番寒い時であるが、今日も雪が降り、相当冷える。多分六甲には雪が積もり、明日の六甲はスキーヤーで賑々しいことであろう。
嘗ては、イエス団の青年達と、雪の日の六甲登山で喜び楽しんだものであった。綺麗に30センチも雪の積もっている上に、顔を突っ込んで面の出来る事や、板一枚の上に乗って、ソリの代用で滑ったりころんだり、風呂敷に包んで土産にした事など、思い出すのも楽しみである。
特に、何の汚れもない真っ白な六甲山頂で、大阪湾を見おろしつつ賛美歌を歌い、祈りを献げ、神戸の救いを祈り、下って路傍説教で救いの立証したことは、終生忘れ難い印象である。
近藤氏来園、伊川谷と加古川の土地につき雑談した。

2月12日
 礼拝出席。崎元婦人と香典の社会事業寄付金、財産の相続分配、漢族関係等に就き懇談した。
3月1日に、故人の5日祭追悼会を開く事、挨拶状はその際発送する事、社会事業寄付金は168、000とすること。借入金未払いなどは、婦人より至急書き出すこと。分配金は本人の名義で預金し、通帳は教会で保管することとした。
午前中小雨であったが、後は晴れであった。

2月13日 なし

2月14日
 協同牛乳の債権者会議が、神戸地裁で行なわれた。
安孫子氏が出席していたが、三島氏(仮名)は欠席していた。前者が出席するようになれば、後者は今後出席できないものと想像される。
午後はビオフェルミンを訪問し、小野常務と面接した。

2月15日
 三木市出張。商工会議所会頭其の他と面接した。
労働問題について労、働者はよく勉強し、使用者は怠慢である。労働組合はないほうがよくて、ある事を非常に迷惑に考えている。
労使が一体となって生産のできるのは何時の日か。

2月16日
 上京、財団法人イエス団寄付行為変更申請が却下となった。これについての厚生省係員との打合せの為である。
日本一の富士がさすがに日本一だと思わせる美しさであった。
雲が全然なく、六合目以上は雪で白く、ほんとに美しい富士であった。何度見ても美しい。

2月17日
 兵庫県東京事務所に行き、川上主事と共に厚生省に行って係員と種々打合せをしたが、矢張り寄付行為の変更は認められなかった。
昨夜は一泊2,150円とられたが、今日は河上氏の紹介で第一ホテルに泊まり1,270円で済むことになった。東京で小さい旅館が安くてホテルが贅沢だと考えたら大間違いで、ホテルが便利であって安上がりである。第一ホテルの部屋が1,300あるのに驚いたが、料金に就いても感心した。

2月18日
 松沢の理事長を訪問し、前日の厚生省での交渉の結果に就いて杉山,宣沼両氏とも懇談した。
最後の案は何うなるか、帰神後理事会の結果でないと解らないこととなった。午後4時半の特急かもめで帰った。

2月19日
 礼拝出席。後役員会。

2月20日
 労働相談に出勤 ミナト機工株式会社訪問。
工場長中島幸男氏が、自分を前から知って居ったと言う。知人とは凡てが打ち解けて相談が出来るので嬉しく思うた。
従業員の募集をしても応募者がなく、欠員補充すら不能である。之では会社は黒字経営でも、労力の面で黒字倒産となる。
宿舎を設備し、鹿児島あたりから募集し、厚生施設により従業員の幸福を工夫することを奨励した。

2月21日
 崎元待命の遺産分配につきイエス団に於いて溝口、西尾両氏と協議し、之を決定した。

2月22日
 久し振りで帝国信栄と本多氏を訪問した。土地と財団の関係についてであった。

2月23日
 洲本市へ出張した。県の公用のためであった。
島は美しく東回りは特によいが、道路が悪く一台の自動車が走っても、土ぼこりで人家は大変だ。その後を追う自動車は、ほこりでたまったものではない。
自衛隊で道路工事をやったら早く竣工するものを。

2月24日
 大阪出張。財団法人イエス団委員会に出席。寄付行為変更申請却下について協議した。
結局、従前どおりのままということになり、賀川記念館設立に寄付金千万円の約束をしていたが、これについては知事及び三浦氏に報告し、其の後に於いて更に検討することとした。多分イエス団に於いて建築することになるであろう。記念館に就いては、最初自分の考えたとおりになるようである。
大阪に一泊し、大阪駅で朝食の後散会した。
木村保母の父上が大病のため木村姉は帰国した。快復を祈る。

2月25日
 加古川の神野氏を訪問し、土地五千坪について懇談した。
続いて土山の佐山氏を訪ね、菊池氏の土地一万坪を案内して貰った。
原野として放任してある土地が勿体ないことである。土地の値上がりで生涯遊んで贅沢の出来る事を楽しみとしているようである。有効に使用し資本を投じて働くよりも、遊んで土地の値上がりを待つほうが有利であるからである。
協同牛乳も、土地を買ったままで事業をしなければ二千万円の利益を得たものを、妙な時代であり現象である。
いい天気であった。中根氏来宅。

2月26日
 礼拝出席。今日も崎元氏の遺産に就き夫人と相談した。委員達の気持ちと若干の差がある。改めて委員会を開かなくては済まないであろう。
賀川春子姉に、委員会の協議の様子を報告した。
正木氏に安孫子氏の要望を伝えた。はがきで。

2月27日
 中根市会議員と土地の件で打ち合わせ。後、二宮(仮名)と高本氏を訪問し二宮(仮名)の負債金額30万を返済した。
午後県庁へ出勤し、神戸鋼船労働組合を訪問し、後河内滝雄組合長と面談した。労使間円滑であると聞いて安心した。
竹中及び岡田訪問。

2月28日
 近藤氏と土地について打ち合わせ。
木村保母の尊父が永眠された。お気の毒である。とりあえず弔電を打った。今日も武田保母が欠勤した。山田はまだ風邪が快復しない。三人の保母が休んだので、残りの三人は大変であり、御苦労様である。
加藤医師と事務打合せをした。
夜、高木親子(仮名)の調整役で辰夫氏(仮名)宅を訪れ、夜九時前まで懇談したがむつかしい男で困ったものである。

3月1日
 早朝前田兄が来宅され、住宅を求めているが得られず、現在居る家は今日限り明け渡しをせまられていると苦哀を訴えての相談であった。
家内と共に服部氏の宅が広いので相談に往った。然し、土地も家も借りることは出来なかった。アパートはあっても家族6人の大勢では、何処に行っても断りばかりであった。
崎元氏の追悼会を開いた。五十数名の出席者であった。自分も所感を述べた。
10時半、丸山(仮名)が会いたいと申し出たので面会した。
協同牛乳の土地建物の所有権で和解をしたらどうかとの件であった。但し奥地(仮名)に3百万円、もう3百万円土山(仮名)に、1百万円を配当せよと言う無理な話である。

3月2日
 稲美町に出張し土地の視察をした。坪1000で500坪程度は買収できるがよく検討してみよう。養老院、林間学校には適するであろう。
花房にも過日視察した。土地に就いて値段の交渉に往った。但し決定を見なかった。

3月3日
 夫婦別れをし、子供を取り合いしている父親から預かっていた問題の子を、母親が迎えに来たので、武田保母は子供を引き渡した。その後で、父親が子を連れに来た。子供は母親が姫路へつれて帰ったことを知り、その責任を追及された。武田は姫路に出張し、その母から子供を預かって帰った。
心配したが、割合簡単に解決した。
茂が、四月二日三時、自宅で結婚式を挙げると案内して来た。
同日、崎元の納骨をすることになっているので時間がどうなるか。甘く都合のつくよう考え、両方の責任を果たしたい。

3月4日
 神戸市議会議員中根氏の案内により、河談の山を視察に、宇都宮と共に出張した。22町歩の面積を、社会施設のために有効に使用したら何うか、と言う問題であった。市は、二年間に近道をつくり、交通を便にするとのことであった。山の利用は容易でない。もう十年若かったらと思う。

3月5日
 三協工業を訪問し、吉田専務の案内で布引の滝を視察した。
この建物及び基金も添えて財団法人を組織、有料養老院を備えて欲しく、更にその運営を一任するとのことであった。殊に、屋上に十字架をつけて呉れとの了解は嬉しかった。
有料養老院とユースホテルをやって見たいと思う。施設ができたら自分はイの一番で入院する。場所のよいこと日本一と思う。大阪湾を一目に見下ろし、大阪神戸の夜の光の美しさは百万ドルとか言うが、実に美しい。
布引の滝が、施設の庭の中の様な感じもする。少し上の方には、布引水源地がある。ここから天国には実に近い感じがする。何だか夢心地になった。若し実現したら本当に感謝である。
米田社長の社会寄与も大きいと言える。

3月6日
 明石市に出張し、きしろ発動機と池内鉄工所を訪問した。労務者の争奪戦を聞き、大変な好景気となったものである。
明石市に三菱重工が進出し、新工場が明石地元で本年六百名の従業員募集をすることになった。市内の中小企業振興会53工場では、三菱に従業員を引き抜きされるのでは生産に一大支障を起こすとあって、市や商工会議所に協力を求めて、地元募集の中止運動を始めている。
市や商工会議所では、市の発展のために工場誘致運動をやっている。労務者は漸次大企業に吸収することになるであろう。中小企業は、自滅か合同かの運命に置かれる事になる。
日本の労使のあり方に就いて深い関心をもたれている。
職員会議を開き、年度末の打合せをした。

3月7日
 県出勤、訪問に出ず。5時まで在室したが来客1名もなし。

3月8日
 1時半より市役所七階会議室に於いて、保育施設長会議があり出席した。
36年度より給料7、5増俸となる。尚、向こう4ヵ年にして、私設社会事業従事者の給料は公務員と同額になる計画であり、大蔵省もこれを承認しているとの報告であった。措置費も予定通りの増額を決定した。
ジャガイモの植え付けをした。7月上旬には収穫できるであろう。種は1貫目であるが十倍くらいになるか。
近藤氏来園、細川姉来園、社会福祉変更に就いての打ち合わせ。

3月9日
 明石出張。明石機械、水田製作、共立マッチ、三光マッチの4工場を訪問した。女工員が失対事業に移動していく傾向にあることには驚いた。日雇から常 雇いを希望するのが普通であるが、常用から日雇への希望は変である。
柴田ゴムが、通勤用自動車で工員の送り迎えをしていると言うが、面白い時代が来たものであり、労働者万歳である。労働の尊さが認められる時がきた。

3月10日
 井上氏と労働宿泊に就いて懇談した。同氏は鉄筋5階建て以上の新築をしたいと希望している。イエス団に300万で現在の財産を譲渡してくれという。幸い長田の建物の件を解決したい。よく検討してみよう。

3月11日
 労働相談協力会に出席。明石方面の三菱其の他の技能者の引き抜きにつき報告した事が、次から次へと話題になった。今日もまた、労働不足に就いての協議になった。

3月12日
 礼拝出席。役員会でイエス団の不法占拠者の立ち退きに就いて打ち合わせ、14日の夜交渉に当たる事になった。彼等は武内と交渉したいと希望しているとの事である。

3月13日
 明石税務署訪問。御影の土地家屋の譲渡に対する課税に就いてであった。
千恵子の東京行のために荷造りをした。
誉田氏と36年予算に就いて打ち合わせの予定であったが、資料の関係で変更した。

3月14日
 川崎氏は工場見学で出張。
高橋氏と加古川行きは取り消し、後日(18日)出張と変更した。
夜、イエス団不法占拠者20名と立ち退きに就いて交渉した。彼は移転は止むを得ないものと考えているが、補償費の要求額を最大限にとの意図のようである。一戸五万円では解決は出来ないであろう。

3月15日
 明石税務署に申告書を提出した。
11時、YMCAに於いて兵庫県基督教社会事業経営者の懇談会の開催があり、これに出席した。
千恵子の東京行き荷物を発送した。
久仁子の婚約式は、大阪YMCAで26日午後2時に挙げることとした。

3月16日
 平中鉄工所は、経営者が肋膜で入院中であり、従業員の解雇で裁判沙汰になっているが、未だ解決はつかない。資金にも詰まっている。得意先からは信用を失い、倒産一歩手前であったが、現在も作業は継続している。主人公も退院している。給料も遅滞なしであるという。よくやっていると感心した。

3月17日
 分所長会義に出席した。会議後の放談会は、職員の中から反対者が出て廃止を主張した。
会費は男女同額で、婦人は給仕をする点、男は酒を呑むが女は飲まないのに、付き合いで時間つぶしとなる。会にテーマがなく、全く無意義というのである。改善の必要がある。席はくじで定める事、給仕は交代ですること、発題者は選挙で定めて、必ずテーマを定めること、テーマがよければ有意義である。

3月18日
 高橋氏と加古川方面の土地の視察を行なった。

3月19日
 礼拝出席。イエス団の土地不法占拠立ち退きに就いて懇談した。
第一、建築用地にならぬ道路敷きの分は第二次とし今回の交渉の対象としないこと、第二、バラックの所有者と協議し間借り人とは交渉しないこと、第三、一定の立ち退き料で交渉の決まらない時は、調停裁判にかけること。

3月20日
 明石出張。明石の工場経営者の最大の悩みは、労働者の確保であるという。世間の景気が好くて、労働者が不足してきたからである。労働者は大工場に集中しつつある。
近藤氏来園。

3月21日
 終日自宅に於いて、畑の耕作とテレビを見ることで費やした。鍬を持つ事は疲れが早い。それを感ずるだけで年を取ったかと思う。

3月22日
 イエス団関係の予算書を検討した。数字の違いは何処にもあるが、事務の才能のないのも困ったものである。
吉田氏と面談し、明徳寮を無償で貸すから、養老院を経営して欲しいと依頼された。重なる点は、土地建物は無償貸与、現金は三百万円寄付するとの事である。基金百万、改装百五十万、運営に五十万を充当する予定であるが、更に実地に就いて検討しよう。

3月23日
 YMCAに於いて、イエス団の36年度予算に就いて理事会、評議委員会を開催し、午前10時から午後6時半まで審議、協議、懇談を続けた。
但し、出席者が少なく理事長、杉山、大川、小川、吉田、本多、芝などの理事は欠席であった。
花隈の建物に就いては、白倉先生とも懇談したが、移転の意志はなさそうであった。何うなるか。賀川先生からの借り入れは、実は先生の寄付であって、借り入れと称すべきものでない点が問題の中心となり、さまざまな説が出るのであるが、兎に角、一時に返済すべきものでないという金田理事の意向は強行である。
明日馬見の卒業式出席のため、吉田氏について奈良に出張した。

3月24日
 馬見保育の卒業式に出席して祝辞を述べた。お母さんたちの出席は、百名を越していたように見受けた。実に盛大なもので驚いた。
昼食の際、役員の人達と食事したが、40人近くの多数であった。
馬見の昔、四人の若者が中心になって、伝道に、保育の設置に努力し、禁酒禁煙で基礎を築いた、古い思い出話をきいたので、僕はそのもう一つ昔の、賀川先生の貧民窟時代について156分おしゃべりした。
帰宅したのは6時過ぎていた。
祐一が北大の工場見学で京都、大阪方面を巡る為に帰宅していた。彼が元気で勉強して呉れることは有難い事である。

3月25日
 神視保育園の卒業式を挙げた。
民生安定所長他一人が、式後出席された。川崎氏の時間の連絡が悪かったためである。
夜は、イエス団敷地不法占拠者と立ち退き交渉の懇談をした。決定は容易ではないが、動く意志のある事は認められる。

3月26日
 礼拝後、久仁子の婚約式で大阪YMCAに行き、村山牧師司式のもとに、長い間の問題も解決した。
出席者は永井父母と娘二人と、こちらは妻と千恵子と祐一も参加し、永井君の友人が一人出席された。

3月27日
 崎元氏の後の件、生命保険金百万円の受け取りは妻のみでなく、全遺族に分配されることになる。

3月28日
 明徳館内に半日を費やし、有効な使用方法を研究して見た。
今日の労働委員10ヶ月の勤務は終了した。余り役にも立たなかった。次年度もう一年継続することにした。

3月29日
 千恵子の上京で、神戸7時17分発霧島号乗り込みの見送りに出た。
彼も他人の処で働く事が修養になるであろう。父母の死後を考えると、早く一人前の一本立ちの出来る人間にしてやりたい。然し、長続きするかどうか気がかりになる。
明徳館の利用方法について色々設計して見た。
3月30日
6時からYMCAに於いて、記念館の設計に就いて協議したが、結論は出なかった。更に検討することになったのである。但し、今晩の検討で従来より一段と進歩した事は事実である。

3月31日
 本多氏が病気でずっと欠席であったが、今日は面談し給料も貰った。去年9か月分から遅払いであった。
今日の天気は好過ぎて暑い。この調子で数日間続いたら、桜が咲く事であろう。
吉田、米田両氏に面会のため三協を訪問したが、不在であった。



 適宜コメントを付せば、理解も深まるものと思われるが、今回も前回同様にまずは、句読点や殆ど改行のない原文に、いくらか読みやすくする工夫を加えて、そのままのものを記録することにした。「日記A」は縦書きであったが、この「日記B」は横書きである。
 武内勝は、この日記を記して5年後、昭和41年3月31日に生涯を閉じている。(2009年9月21日記す。鳥飼慶陽)



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