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 お宝発見「武内勝日記A」(8) 昭和2年8月〜昭和4年6月
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貧民窟主題の小説書きたい
一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 賀川豊彦献身100年記念事業のひとつとして、武内勝口述「賀川豊彦とそのボランティア」(1973年)の「新版」が本年(2009年)11月末に、神戸新聞総合出版センターから刊行される。
 この口述の中にも、勝の父「武内用三」のことが述べられているが、賀川豊彦にこの父が目を留めることがなかったら、勝のところを賀川も訪ねることもなかったかもしれない。
 今回の日記にも、武内のところへの父の来訪のことが書かれている。
 残されていた武内勝所蔵アルバムの中に、父の写真と思われるものがあった。添付のものが多分、「父・用三と勝」ではないかと思われる。


 昭和四年四月〜六月

四月一日 月 晴
昭和四年も四分の一は過ぎ去った。
失業救済事業も一先ず片付いた。
寺川、後藤、胸永の首を継ぎ得たは仕合せであった。一人の職を見つけるは容易でない。

四月二日 火 晴
本年度から、土木課人夫賃金一日一銭を、電気局のそれを五銭と増額し得たは、労働者の為に結構であった。
彼等の賃金を一銭値上げするは、自分の給料五円値上げよりも、より以上に嬉しかった。
山内君、職業問題で相談に来訪された。君の如く、職業で選ぶものは、どれ程多数にあるかも知れない。

四月三日 水 晴
今日は祭日であるが、失業救済事業報告を作るため出勤した。
余り多忙で何も出来ない。殊に読書の時間が少なくなった。
自分に於いては、読むことよりも、働く事の方が神の聖旨なのであろう。

四月四日 木 晴
好い天候になった。何んなに喜んでいいであろうか。天地ともに喜びに充ち満ちている。此の世界さながら天国の様である。
若し社会問題を考える事なくして、天を仰ぎ、山を眺め、鳥のさえずる声を聞いていれば、此の世に何処が悪いのかと言いたくなる。
何はともあれ、如何なる悪魔も、伸び上がる草木の新芽を止むる事は不可能であろう。晴れ渡る美しい空を汚す事も出来ないであろう。
ああ、私の生きる世界は、矢張り悪魔の世界でない。
電気局の朽木主事より電話があり、先日供給人夫賃金一人百の単価、金一円三十五銭と約束したが、局長が承知しないから、矢張り一円三十銭にしろと申し込んできた。
自分は又、局に出かけて経理課長に交渉し、課長は更に局長に相談した。
その間、自分は祈った。局長が五銭の値上げを承諾いたします様にと。
神様、貧しい者を憐れむ意味に於きまして、労働賃金五銭の値上げを何うぞ局長が承諾いたします様にと。
暫らくして、課長は局長室より帰って来た。そうして遂に値上げを承知した。
自分は帰途、感謝した。これで本年一ヵ年、電気局で働く人夫が二千円の増収となる訳である。

四月五日 金 晴
大掃除で、一日の晴暇を貰って休み、家の掃除で終日働いた。
身体の全体が痛む。長い間、労働を休んでいる罰であろう。力の入る仕事や運動も怠ってはならないと、つくづく感じた。

四月六日 土 晴後雨
庶務規定改正案が、職業紹介所事務打合せで可決した。
自分が首謀者であって、此の案文は成立させたかった。市の紹介所の為に必要なる事であった。

四月七日 日 曇
朝は黒田牧師の説教があり、夜は賀川先生の死の芸術と題しての説教があった。

四月八日 月 小雨
庶務規定改正に関する打合せに就き、中村、泰山両氏と自分の三人が、東部の紹介所に於いて協議した。

四月九日 火 雨後晴
神戸労働保険組合理事会が、平和楼に於いて開催になり、自分も出席した。
組合の一ヵ年の予算が四万円とは、組合も発達したものである。
此の組合を発達せしめる事に依って、神戸の日傭労働者の統制を計るものとしたいものである。
理財に於いても、此の組合が存在する事により、労働者の不安と苦痛とは余程減ぜられていると思う。

四月十日 水 晴時々曇
近江より、義男兄夫婦と久子氏親子三人連れの訪問があった。余り意外なる客で驚いた。
兄の親子共に健在である事を喜んだ。互いに子供の順調に発育しつつある事は、特に感謝しなくてはならない点である。
日中は、牧野氏の一家族の来客があり、大入り満員の一日であった。

四月十一日 木 晴
小阪氏(仮名)が職業紹介所を辞職し、本日山口県に向かって、兵庫駅を出発せられた。
氏は神戸市紹介所の最古参であって、一番長い功労者であった。
氏は耳を病み、殆ど不具者となり、現職を辞するも、他の何等の職にも従事し得ない失業者となるのである。
又氏は九年間就職したるも、その間貯蓄金も出来ず、或いは幾らかの貯えは準備する考えでありしも、株の暴落を銀行の破綻に依り全く無価値に等しいものとなり、故に金はなく職は失い、身は不具者となりと淋しく神戸を去った。
その姿の気の毒なのには、一言も語り得なかった。
美邦の体重一貫六百匁。
芳夫の来訪あり。

四月十二日 金 雨後晴
富士野から、美邦の車を買う為とて金参拾円を、馬場氏に託して贈って来た。
彼を立派な人と教育し得ることの出来る様に、彼の健康と教養との二点に特に心配する。

四月十三日 土 晴
平井の愛ちゃんが、岡山から出て来た。長く便利な都会生活に馴れた者は、田舎には止まり得ないのであろう。暫らく我が家の客となるであろう。

四月十四日 日 晴寒気強し
朝は自分が、神の聖旨は成ると題して述べた。夕拝は井上増吉氏が、隣人愛と言う題で説教した。
前首相若槻礼次郎氏の政談演説を聞きに、妙法寺川迄出掛けた。現政府案を攻撃するのみで、別に得る点はなかった。
馬場氏を訪問して置いた。想像以上に健康であった。

四月十五日 月 晴
昨今日、桜見の客は大変なものである。電車と言う電車が皆満員で、すし詰めの盛況である。
三郎君、急に発熱し四十一度五分に達したが、その原因は不明である。
ユキ子は、乳がしこって困っている。人間は生身だと言うが、何時誰が大病になるかも知れない。
我等の健康も又、神の守護の内にあるものである。我が身の事が、我自身に不明なのである。

四月十六日 火 晴
馬鹿に暖かくなって来た。春というよりも夏に近い天候である。
三郎君の熱は、朝に下がって夕に上がった。又三十九度を過ぎたと言う。
ユキ子の乳のしこりも、少しましだと聞いて安心した。乳が出なくなっては、美邦の健康が保たれない。

四月十七日 水 晴
またまたユキ子は乳で、三郎君は熱で、二人ともに困って居り、愛ちゃんは皆への奉公で、忙しく働いて疲れている。お気の毒である。
祈祷会の出席を中止して、家での仕事に時を用いた。
父が大阪から来て、病人のあんまやらお灸やらで、看護に夢中で助けて呉れた。父でなくしては出来ない、熱心と親切との努力である。

四月十八日 木 曇
楢崎氏の奥さんの訪問があり、井上増吉氏の結婚問題に就いての相談があった。然し、井上氏は不賛成であると、自分は強いて何も言えない。
ユキ子が、乳が今度はヒドク悪いと言う。困ったものであるが、一つが使用に堪えずとも、残す一つで補いがつくのであろう。二つ備わっている事は、不思議な恵みである。
三郎君の病気は、余程全快に近づいた。明日くらいは起床できるかも知れない。

四月十九日 金 晴
自分の生涯に渡っての仕事を考えて見た。
現在のままで善いかと、何だか足りないものがある。
では何が出来るかと自問にして、何も出来る確信の自答が出来ない。
伝道しなければ済まない様にも考え、専門家にはなり得ないとも考える。
が、迷えば果てしがない。主の導きに従うより他に方法はない。

四月二十日 土 曇
三郎君は又、病気で悪いと言うし、ユキ子の乳もよくない。
人は生身である。何時病気するか知れない。注意した上にも注意を要する。
まあ、大病人でない事は感謝しなければならぬ。

四月二十一日 日 曇
昨夜以来暴風で、吹いて吹いて吹き捲っている。桜の花も完全に散って終ったであろう。
須磨に居住して、須磨の桜を知らずに散らして終った。今年の桜にはもうあきらめるが、又来る年には喜ばせて呉れるであろう。
朝は井上君が、夜は自分が述べた(全き生涯)。会衆に変わりなく、新しい青年が唯一人出席していた。
三郎君が病気保養の為め、八幡に往った。

四月二十二日 月 曇一時晴
大阪から父が来て、家内にお灸をすえている。
自分にも中風にかからぬためとて、両の足に二つずつすえた。
之がきくか何うかを知らないが、父の信ずるがままに身を任した。
灸がきくときかないとは第二として、父の熱心なるすすめに反する事を不孝のひとつに感ずるからである。
きかずとも、父に満足を与えるなら、あつい位の辛抱は楽な孝行である。

四月二十三日 火 晴
市会議員選挙運動で、名刺の代用でビラを数多く戸毎に何十枚も配布するものがある。降頭主義の名刺の使用を禁じても、ビラに名を付して配布すれば、結局に於いて同様である。
ビラ配りも廃して、唯郵便に依る推薦状のみに限る可きである。

四月二十四日 水 晴
美邦の為に乳母車を買った。然も上等すぎるものを。
大丸に販売する最上のものである。我々の如き貧乏人の用いる可き物ではない程、値が高いけれども、子供の脳の為と、長く使用の出来るもの、完全なるものを使用するとせば、止むを得ない。
善き品を使用する事が悪いのではなくして、値の高いのが悪いのであるとも言える。富士野の折角の注文だから之でよかろう。

四月二十五日 木 晴
榎本丈夫君の結婚式を司った。会場は雲内教会で会衆四十名であった。彼の新しい生活の為に祈った。
結婚司式は、同君のが生まれて初めてである。
市会議員選挙に一票を投じた。
信頼するに足る人物がないために、棄権した方が善いとも考えたが、又考え直して民政に一票を入れたのである。無産党員の候補者が立っていないから仕方がなかった。

四月二十六日 金 晴後曇雨
全国の開票が終わらないのではっきりとは解らないが、民政三十、政友十八、無産五十四位になりそうである。全体に於いて一般の予想とを裏切らなかったと言える。

四月二十七日 土 晴
引き続き市会議員問題は、市民全体の興味の中心である。
開票の結果、民政三十三名、政友十三名、革新四名、無産五名、其の他は中立となった。民政が何といっても第一位を占めた。今後は無産党が改選ごとに増加して行くであろう。
加藤氏が、弟君の就職の件で来訪された。

四月二十八日 日 晴
朝は自分が、夕は井上君が説教した。
美邦を乳母車に乗せて、須磨寺公園に散歩に出掛けた。
桜の花は散って、葉ばかりであった。
美邦に猿と鳥を見せるのが散歩の主眼であったが、未だ動物を見て喜ぶだけの知能が発達していない。夏は出にくいであろうが、秋は見て楽しむであろう。

四月二十九日 月 晴 天長節
休日が二日続いた。今日こそ、日頃の疲労が少しは癒えるかと思ったが、来客が多くって休日にはならなかった。
茂の親子二人に杉山君、紹介所の上野、杉田の両氏、遂々終日了った。

四月三十日 火 曇
前年度の仕事が未だ片付かない。自分の責任を果たして済むまでは、気がかりで成らぬ。
今日は朝から、酒飲みで事務の妨害を被った。何と思っても、酔っ払いには閉口させられる。
人に同情し、弱きを助け、慈悲を施し、貧しい人達への奉仕は、苦痛よりも楽しみが多いが、酒飲みの無頼漢が無心に来て、何時間も動かないのは一番困る。

五月一日 水 曇後晴
二十九日が天長節で休日であった為に、今日の水曜日を忘れていた。
二十年の間に教会の集会日を忘れて欠席したのは、今日が初めてであった。

五月二日 木 晴
サンダーシングを読んで、霊の方面に於いて余程啓発された。沢山の知識を得ずと雖も、深い徹底した真理を述べている。大いに学ぶ可き事を悟った。

五月三日 金 晴
紹介所の専門化に関して、中央で打合せをしたが、何も決定しなかった。
中央の若い連中が経験もないくせに、長年間経験し現在も実務の担当者である老練家に向かって、命令がましいことを言う。
何という不謹慎な事であろう。彼等は学ぶ可き処で教えんとす。

五月四日 土 晴
前日に引き続き、中央での打合せを延長して、春日野紹介所に於いて、中村、泰山、自分の三人が特に協議を重ねた。
兎に角、神戸の紹介所の為に、少しばかりの善き道を開いたと思う。

五月五日 日 晴
春らしくもなく、雪や霜が降ったと新聞は伝える。急に寒くて、何だか冬の様である。
朝は井上君が、夜は自分が説教した。自分が剛健の秘訣と題して述べた。
平井の夫婦とおつかさんが、岡山から帰られた。

五月六日 月 晴
平井夫婦は北海道に向かって出発した。
お母さんは美邦を祝う為に、のぼりを買って下すった。
去る三日は、武田、絹井の両姉から金時を、今日はお母さんからと、何だか床の様子が変わり、美邦の存在をしてより一層強めた。
美坊が種痘のために三十八度以上の熱を出し、少し気分が悪いらしく、笑い方が少し変である。

五月七日 火 雨
新潟行き人夫三十五名が、六時二十五分三宮発で出発した。
彼等は一つの旅袋があるでなし、三十銭の使銭を持つ者も稀である。ハッピ一枚の着のみ着のままで、之が本当の裸一貫である。
敏ちゃんが一泊して上阪した。

五月八日 水 晴
前年度の整理が未だ済まない。金銭の取り扱いは、二重にも三重にも調査した上にも、尚調査の出来る様にして置かねばならぬ。
今度の件でつくづくそれを感じた。事務打ち合わせ会で、午後十一時迄過ごした。

五月九日 木 晴
自分は生まれながらの天才に非ず。否今も変わりなく鈍才なり。
大学校まであるに尋常卒業したのみの自分は、教育を受くる点に於いては損な男であった。
人の習得すべき技能は数多くあるものを、何の技能をも学び得なかった事は、社会に何事かを貢献するのは甚だ不適当であった。
然し、今更後悔するも如何とも方法がないけれども、自分は常に神に感謝の念の堪えない事を、有難き御恵みと喜んで居る。
天才に非ずとも、全くならんが為に、日々努力する事の出来るは、ありがたき仕合せである。
小学校すら卒業してはいないが、毎日数十頁以上の読書により、少しずつの知識を得るは、楽しい極みである。
何等の技能をも有たざる者なれど、健康にして許されし仕事に、忠実に奉仕さして頂ける事は、言い表し難い感謝である。

五月十日 金 晴
天皇陛下の行幸せらるる矢先に、ペスト患者が現れた。
当局者は、此れが防疫に努むるは勿論であるが、かかる悪疫のある地に、陛下の行幸を仰ぐ事は、市民として慎むべき事であろう。
又かかる病気に依って死する者は、実に気の毒に堪えない。こんな病気では一人の人間をも死なせたくないものでる。
近き将来には、ゼンナーが種痘に依る疱瘡の免疫を発見したと同様に、善き予防方法が発見されるであろう。

五月十一日 土 晴
行幸に際して、御道筋の道路は実に立派にされつつある。
風の日、塵が少なく、雨の日に泥がなく、見るに美しく、交通に安全である。
センターポールをサイドポールに改めただけでも、一年間の障害と損失は余程減ぜられたであろう。
健康の為めに善く、危険が少し、こんな便利な事を何故早く実行しなかったかと言いたい。都市計画が一年遅れる為には、どれだけの生命と財産とを失いつつあるかも知れない。増税するともよろしく断行すべき問題である。

五月十二日 日 晴
朝は自分が、富める人とラザロに就いて述べ、夕は大垣兄と井上兄が、前者は愛に就き、後者は持てる者は尚余りありとて米国の例を引いて述べた。
美邦の体重一貫七百三十匁になった。彼の成長は我の成長である。我の形は彼の形の中にひそむ。

五月十三日 月 晴
美邦の教育に関して考える。
彼に遺産として残すの財は、自分には持ち合わせない。又彼に最高教育を授くるの経済資力がない。
然し、彼が如何なる失意、貧乏、失敗の時にも、失望せず悲観せず、又如何に富み如何に強き勢力を有すとも、おごる事なき、或いはどんな悪い環境に居り、悪友に誘惑されるとも、堕落せざるの剛健なる霊魂をつくってやりたいものである。

五月十四日 火 晴
三郎君が帰って来た。彼が健康であり、彼が善き仕事を見つける事の出来る様に、彼にアーメンの霊魂が宿る様に、彼の為に祈ろう。
予算分割と職業紹介所専門化との二つの問題で、社会課に於いて打ち合わせた。之で長い間の問題が、すっかり解決がついた。

四月十五日 水 晴
社会課長が、米国に於ける万国社会事業大会に出席のためと、谷口嘱託の英国に開かるるボーイスカウトの大会に参加のためと、両氏の門出を祝し、大いに気勢を添えんがための、送別会が魚庄に於いて開かれた。
自分は例の如く、食事だけ摂ってさっさと引き上げた。出席者八十四名の第一退席者であった。
帰り、直ぐに祈祷会に出席した。堀井君と自分とが感想を述べた。

四月十六日 木 曇
鉄道の踏み切りで一名轢死した。本年の一月から自動車が三台、人は何人死亡したか記憶しないが、余りに事故が多いがために、これを魔の踏み切りと称している。
鉄道省は実に横暴で、何人の生命を奪い、何十台の車を破壊したら、踏み切り番を置くであろうか。
人が鉄道に対して損害を与える時は、石一個でも警察の手を以って之を捜しているに、自分の側で民間に与える損害と迷惑と危険とに対しては、何等省みる処がない。不都合千万である。

五月十七日 金 晴
神戸労働保険組合の評議会に出席した。
会としては、これ程愚かなものに余り出た事がない。然も、経費の百円近くも消費しているであろうに、今少し有効なる評議会たらしむる事の出来るものを。何という無知な事であろう。
職業の同労者にキリストの道を語って置いた。
友人の上に救いの御手が延びる様に、自分が退職するか、彼らがそうする迄に、救いをして信ぜしめ度いものである。
大西兄を訪問した。

五月十八日 土 雨後曇
今日も仕事中に、信仰に導かんがために、一人の事務員に自分の体験を語って愉快であった。人に真理を語る、こんな楽しみは又とあるまい。語りつつ働き、働きつつ語るのである。
美邦が一昨日から下痢しているので、彼の病が気になる。自分の病気以上に心配である。原因が不明なだけ、それだけ心配なのである。

五月十九日 日 曇後晴
朝は井上氏、夜は自分が説教した。集会に変化なし。
日中は、美邦の守り役を務めた。七日中一日は、妻に対し幾分でも慰労休暇を与えんが為である。美邦が腹を少しく痛めている。彼の病気は、何よりの心配である。

五月二十日 月 晴
児童相談所のお医者さんに依頼して、美邦の診断を願った。大したこともないであろうが、腹の悪い事だけは間違いはない。
紹介所の問題は、一先ず解決つくであろう。

五月二十一日 火 ?
阪神国道の市内接続道路が、愈々設けらるる事に決定した。
起債の認可があった。これでイエス団も二十年目に新築しなければならなくなった。
余り大きな家でなくとも結構だが、せめて仕事だけは充分に出来る設備が欲しいものである。

五月二十二日 水 曇
事務打ち合わせ会で遅くなり、祈祷会に出席し得なかった。
最近、祈祷会に出席する率が少なくなった。この次から間違わざる様、出席したいものである。

五月二十三日 木 雨
谷口嘱託がロンドンに出張の為め、香取丸で神戸を出帆する事となり、第一突堤に見送った。
後大阪に出張した。用件は事務局に於ける打合せであった。

五月二十四日 金 晴
今日はいやな相談を受けた。
この世に於いては、問題とさる可き事が問題とされず、中心を失ったきりきり舞いをしながら、詰まらない事ばかり問題にしている。実に愚かな事である。

五月二十六日 土 
余りに疲労し過ぎて、ぼうとして終った。少しは頭痛もある。

五月二十七日 日 晴
朝夕共に黒田氏が説教した。夕は、久し振りにイチゴで親睦会を催した。
昼は、美邦の守で時間の経つを知らずにいた。

五月二十八日 月 晴
職業紹介委員会に出席して、俸給者紹介に関する市長の諮問事項に対して審議した。
夜は、木村社会課長の送別会を兼ねた、昭和三年度神戸労働保険組合の決算報告があった。平和楼の御馳走になった。

五月二十八日 火 雨
孫文の十七年記念で、支那ではお祭りをやっていると言う。
彼は、支那のあらん限り記憶される事であろう。孔子につぐ偉人として非常なる尊敬を受くるであろう。
彼は至る所に於いて追い回されて、迫害を受けつつ三民主義を称えたが、彼の死後、今日程支那の国民に尊敬されるとは想像もしなかったであろう。

五月二十九日 水 晴
社会課長渡米の為め、神戸出発で見送りに往った。見送りに出た者五百名、彼は何と言いても人気男である。お役人としては珍しい人である。
願わくば、彼に信仰の復活の起こらん事を、である。

五月三十日 木 曇
千狩り公営所より、供給人夫の値上げに関する相談に来た。
又小道課長に交渉して、単価十銭を値上げしよう。一人の賃金十銭値上げは、労働者に取っては大きな利益である。

五月三十一日 金 晴
久し振りで、上ヶ原公営所へ人夫賃金支払いに往った。
阪神国道を自動車で飛ばす事は痛快である。金持ちが自動車で乗り回すのも無理がない。
東京市長堀切氏は、賀川先生に対して、内務省社会局長たる事を勧めてくるとの事である。
何時か先生が、僕に大臣になって呉れと依頼して来る時があると予言したが、成程と想像される日が来た。

六月一日 土 小雨
美邦が乳児脚気とは困った事になった。今の中に健康回復をしてやりたい。
今度こそは、彼を満足に成長さしたいものである。何事も考えられない。

六月二日 日 晴
朝、偉大な途と題して奉仕の生活の尊さを述べ、夜は井上増吉氏が隣人愛と題して、米国に於ける我が同胞の状況を述べた。

六月三日 月 晴
英国に於ける総選挙の結果は、労働党が第一党となった。マグドナルド氏、定めし御満足であろう。
我が国の労働党は、とても英国との比較にはならぬが、市町村議員は全国を通じて無産党なき処なきに至った様である。
然し、労働党が天下を取るなど、とても近き将来ではあるまい。恐らく自分の老人となる頃であろう。

六月四日 火 晴
今日より三日間、大阪に於いて天皇陛下を奉迎することになっている。
市民の中には、夜も眠らず、昨夜十一時より、御迎えのために莚の上に座してお待ち受けしている者があると言う。然も少数の人でないと言う。陛下は定めし御満足であらせらるるであろう。

六月五日 水 晴後雨
美邦が今日から貰い乳をすることになった。
何うぞ、成績よく健康回復する様に、彼の節句を祝う為に、妻は柏餅を餅屋につくらせた。



 この日記が書き記された帳簿の最後には、次のメモ書きがある。

大正八年八月八日 日暮通二丁目七ヨリ移転
再寄留地     吾妻通五丁目六番地(三木善次方)家主名
            武内勝 善志 梢



 日記はこれで途絶えている。続きが在るかもしれないが、武内を知る貴重なものである。毎回手数をかけて読みやすく本サイトでアップいただいたことに改めて感謝したい。毎回お読みいただいている方や感想を寄せていただくお方もあって、何とか「武内勝日記A」を紹介する事が出来た。
 この勢いで、もう一冊の「日誌」(これは賀川没後の翌年・昭和36年の1年分)を「武内勝日記B」として4回に分けて紹介しておきたい。(2009年9月18日記す。鳥飼慶陽)



賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会
東京プロジェクト 事務局  〒156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19 賀川豊彦記念 松沢資料館内
神戸プロジェクト 事務局  〒651-0022 神戸市中央区元町通5-1-6 神戸共栄火災ビル7F