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 本サイト44回目に、「雲の柱」に掲載された「小さき人生の完成者」と題する、武内勝の賀川春子宛に書き送られた「美邦ちやんの追悼書簡」を収めた。
 前回から「武内勝日記」に綴られている、ご子息・美邦ちゃんの誕生とその養育の日々に立ち会う、父親としての熱愛ぶりは、何とも切ないものがある。
 今回は、武内勝所蔵アルバムのなかから、美邦ちゃんとは幼馴染で「一麦保育園時代」「瓦木尋常高等小学校」も共に学び、親しい友達だったと語られる、現一麦保育園顧問の梅村貞造先生が、美邦ちゃんと共に収まっている写真が残されていたので、その1枚をここに添付したい。
 梅村先生には、このたび武内所蔵アルバムの写真すべてにわたって、撮影場所と時、そして人物の特定の御願いをしていて、その作業を終えられた資料一式をご返送いただき、本日ただいまそれを眺めているところである。
 ご返送いただいた中に、梅村先生がお書きになった2008年4月8日付けの玉稿「一麦と私―武内美邦(よしくに)君のこと」という、大変貴重な手記のコピー3枚なども添えられていた。
そしてお手紙には「何と言っても武内美邦君と一緒に写っている小学校四年生の時の写真に出会えたことは感激でした」とあって、「これは間違いなく瓦木小学校の四年生の時のクラス写真です。美邦君と梅村は同じクラスで、共に写真に写っています。担任は、師範学校卒業したての奥道正先生。昭和14年3月ごろ?」とコメントして頂いている。添付の写真が、それである。
 これら諸資料は、間もなく完成する新しい賀川記念館に開設される「賀川ミュージアム」に整理・保存して活用される予定で、この作業もその下準備である。


 昭和四年一月〜三月

一月一日 火 晴
昭和三年を感謝の中に送り、四年を希望を以って迎えし事を感謝す。
本年も又最善を尽くして、神様に御奉公しなければならぬ。
我が生命のある限り、善き奉仕を続けたいものである。
殊に年を取るとも、愈々よりよき仕事の出来る為に、準備としての勉強を、熱心にやりたいものである。
イエス団の青年とお正月の雑煮を祝った。
今年の正月には、女手がないのでどうかと思っていたが、美容院の二人の娘さんと、芝のお母さんが、早くから準備せられたので、何の苦もなく御馳走になれた。

一月二日 水 晴小雪
富士野が帰岡した。
奈良県高田町堀江要次郎氏方で開催の、イエスの友会第二回福音学校に出席した。
イエス団二十年史を述べよとの命令で、それを語ったが、準備がないので充分話せなかった。
とても寒い日である。深い印象を残す為に結構である。
集席者数約百三十名、中々盛んであった。之に依って、農民の間に主の道が伝わる事は、何より大切なことである。

一月三日 木 晴小雪
酷い寒さである。夜中眠れなかった。
神戸も寒いのであろうが、奈良は特別に寒い様に思われた。
福音学校中途で、正午帰宅した。
今年の正月は、杉田君唯一人のお客で、実に淋しい正月であった。
美邦の誕生が、イエス団の青年達への御馳走に迄影響した。

一月四日 金 晴小雪
寒さが続く。もう少しは暖かくてよい筈である。
同僚の小高氏(仮名)の病気に就いて、色々相談を受けた。余り長くは働けないであろう。
氏は、長年市に奉職して貯めた金で株券を買い、皆失敗して終ったと言う。
何と言う馬鹿らしいことであろう。経済界の様子が解りもしない癖に株券を買うなんて、本当に愚かなことをしたものである。
氏が健康失っているのは、全く金の心配からであろう。愚かなる者よと、主は呼び給うであろう。此の途を取って、多くの人が失敗したのである。
三郎君帰宅。

一月五日 土 晴
労働紹介員と保険組合の職員と、都合十人が六甲に登山した。
何時も正月三が日の中に登山するのであるが、本年は奈良行きの為め延期となった。
毎年の登山口は南からであるに、本年は有馬電鉄を利用して、六甲北口から登り、南に越えて帰った。
頂上では、雪の芝山を亜釦引板に乗ってすべった。実に愉快で堪らない。又登って遊び度くある。

一月六日 日 晴
礼拝説教を井上氏が述べ、夜は賀川先生司式に依り、小山威郎君と日比生清八君とが受洗した。
先生は、簡単にテサロニケの終わりに就いて語り、残りの時間で、自分が親心と題して語った。
先生は又、雲の柱に六十頁ばかり書けと言われる。一昨年も同様の勧告があったにも拘らず書かなかったが、今年は書いてみようと思う。

一月七日 月 晴
雲の柱に書く可く、イエス団の昔を追想するが、仕事が多忙でとても書けそうもない。然し、努力して書く事にしよう。
自分としては、嘗て原稿なるものを書いたことがないので、何となく気後れがして仕方がない。

一月八日 火 晴
美邦が段々と美しく可愛くなる。肉付がよくなり、皮膚の色がよくなり、頭脳が益々発達し、目がしっかりとはっきりして来る。見れば見るほど、可愛くなる。
彼の為によく勉強しよう。彼を善く教育する為に、最善を尽くさなければ済まない。
天の父は、人間を立派にお創りになったと思う。
眼の位置といい、鼻のそれといい、口にしても耳にしても、現在の位置を変更して他に譲る処がない。
ああ奇しきかな、妙なるかな。

一月九日 水 晴
祈祷会に出掛けた処へ、義男兄が来訪され、教会を欠席して懇談した。
茂兄の就職も近く決定しそうであるし、皆が元気である事を聞いて感謝である。唯、お母さん姉さんの間が円満にないことが遺憾である。

一月十日 木 晴
井上増吉兄の仕事が決定して、今日から採用になった。
これで兄の為に安心した。日給弐円五十銭也である。市としてはよく給料を出して呉れた。之で彼に嫁の心配が残るだけである。

一月十一日 金 晴
職業紹介委員会に出席した。
問題は失業救済事業に使役した人夫の解雇方法であった。その結果は、扶養者の少なくないものから順次解雇する事となった。
中山陽子の葬式を営んだ。生後二十日にして此の世にサヨウナラした一ヶ月の早産児であって、寒さが死の原因となったのであろう。
おしい事をした。中山兄のために祈った。聖霊、彼を慰め給はん事を。

一月十二日 土 晴
四五日暖かくなった。春の様である。今に又、寒気は増すのであろう。
何にしても善き日は有難く結構である。気候の如何に依って、人は長命もすれば短命にもなる。殊に身体の弱いものに於いては、最もヒドイ人が会う毎に、天気のよしあしを挨拶にする筈である。
何でもない言葉の中に、深い意味がある。

一月十三日 日 晴
朝は井上氏が述べ、夕は自分が述べた。
三ヶ月ぶりで、神戸消費組合で説教した。

一月十四日 月 雨後晴
神戸市内の基督教会員の親睦会が、会費一円也で、大丸食堂で開催になり、かかる席上に嘗て一度も出席したことのない自分が、井上氏の勧めに依り参会した。別に何の感じも起こらなかった。

一月十五日 火 晴
海員液済会病院に養生中の、絹井喜一郎氏を見舞うた。
氏は余名薄くある様に見受けられた。気の毒である。
聖書之研究を読んで、矢張り内村先生は偉いと思うた。

一月十六日 水 晴
佐藤兄の宅で夕飯の御馳走になり、引き続いて祈祷会を開いた。
家庭集会であった。長く開いた事のない集会であった。
美容術の若い婦人が二人連れで、常に何かと世話をして呉れるのも妙である。
マリヤは善き方を選んだ。然しマルタもあって、大いに助けらるるを感謝する。

一月十七日 木 晴
床次氏の態度はさっぱり煮え切らない。国民の何の期待も出来ない人の様に思はるる。日本に善き政治家が生まれないが、国民全体が政治教育に乏しいからである。今少し訓練さるるならば、もっと善き政治家が出るであろうに。

一月十八日 金 晴
須磨発午前五時二十八分で、岡山行きの旅であった。
用は初枝結婚式に列席する為であった。彼は、伝道者山崎千年鶴と夫婦になった。初枝に取っては、分に余る善き人である。
彼の父が、今日尚生存して居れば、山崎君に嫁する事は不可能であったであろう。両親はさぞ満足する事であろう。墓場に報告に行かなければなるまい。
田舎は、何時迄も変わらない処である。若し変わるとすれば、それは発展にでなくして、漸次寂れていくのである。

一月十九日 土 晴
妹の産婆の仕事の多忙なのに驚いた。
彼は殆ど夜寝ないと言う。何と言う仕事ぶりであろうか。
彼は仕事に忠実である。忠実なればこそ、今日程の仕事があるのである。彼が過去に於いて真面目に働いた何よりの賜物であり証拠である。
何はともあれ、彼が社会の御用を、より多く務むるの幸福を感謝する。

一月二十日 日 晴
帰神したが、少しく頭痛がするので教会を欠席した。
帰る途中、車中色々考えた。
武田五郎兵衛氏の初枝に対する祝辞の内に、お美祢さんはもうキリスト教を中止するかと幾度思わされたか知れなかった、あれ程の試みは耐えないだろうと思われたにも拘らず、またしても頭を上げ、その苦闘の中に、善き神の証言者を出し、ここに又聖職者の妻に献げる一人を出した、と誠に名誉この上なき祝辞である。
おばも、かかる言葉を聞いて喜びに充ち、感謝に溢れたであろう。
尚その余命を、誠に恩寵につつまれつつ、神の国に迎えられるのであろう。
彼は人より見て苦労多き、気の毒な人であった。然し、神様の方から見て、実に感謝の人であった。彼の幸福は、神も火も水も之を奪う事が出来ない。
ああ、おばのために感謝す。
美邦が、下痢の止まずして、尚且つ便の色が悪いと聞いて心配した。
彼の病気は、自分の病気以上に心配でならぬ。
彼の笑顔は、平和楼の御馳走に勝り、彼の肥満は百万円に勝る。

一月二十一日 月 晴
河相君と山内君と本多君との訪問があった。
用件は、消費組合の洗濯部の設置に就いてであった。河相・山内の両兄は、今より洗濯屋となる訳である。彼の職業の為に祈る。

一月二十二日 火 晴
海員液済会病院入院の絹井喜一郎氏は、腹膜のために生命絶望と医者から診断された。気の毒である。彼の為に祈る。
彼は、神戸に来て以来、キリストの救いを知った。それ以外の事は凡て、彼には不利益であった。然し、信仰を恵まれて天国に至るは、物資に富んで地獄に行くに優る。

一月二十三日 水 晴
祈祷会に於いて、絹井氏の為に祈った。
美邦が少しく腸を害し、消化不良の便をするには、かなり心配する。
我が身の病気に罹るよりも、子供のそれが遙かに心痛である。

一月二十四日 木 晴
村松浅四郎氏の招待に依り、夕飯の御馳走になった。
氏の事業は、氏の一代限りであるかもしれない。氏ならでは出来ない仕事であって、神より特に命ぜられたる任務であろう。
帰途、同伴の友にイエスの勝利を説いて、氏の救いの実証を語った。
キリストは矢張り、極悪人の救い主で在し給う。ハレルヤ

一月二十五日 金 晴
絹井喜一郎氏を液済会病院に訪問した。兄弟は、刻々として天国に近づきつつある様に見える。
兄弟は此の世に長く残るよりも、神の国に入る事が、父の御旨であったのであろう。主は必ず御旨をなし給う。

一月二十六日 土 後雨
美邦の病気が、依然として心配でならぬ。
彼に若し死が臨んだらと思う。その時、私は何うする。
親を送る以上に、子を葬るは悲痛である。万一彼が召さるるとなれば、それは又、何ゆえに彼は召されるのであるか。父なる御神の御旨を知り度い。
主よ、願わくば、彼を健康に育つ事を許し給え。
神戸消費組合の総代会で海員倶楽部に出席した。神戸の組合は、益々栄えて行く。感謝である。

一月二十七日 日 晴
朝は自分が、夜は賀川先生が述べられた。集会に変わりはなかった。
古着市の追加をやった。青年諸兄の労を感謝す。

一月二十八日 月 晴
絹井兄の病気が益々重くなった。
今日は山口の兄さんの方へ、危篤の電報を打って置いた。もう今日明朝が危機であろう。彼の為に祈る。

一月二十九日 火 晴
絹井君は午後四時三十分永眠した。
十時には病院より教会に移送し、十一時に納棺式を行い、夜徹を十一人の青年が守った。
彼の最近は、物質的には誠に気の毒であった。極度の貧乏と戦った。
病気と失業と貧乏と三つを一度に引き受けた。遂に倒れた。
然し彼は、イエスの救いを信じて居た。物質には恵まれなかったが、霊には却って富んでいたであろう。

一月三十日 水 晴
故絹井喜一郎の葬儀を執行した。自分が司会して、賀川先生が説教した。
之で彼は満足しているであろう。
山口からも、長男の兄さんの奥さんと、次の兄さんと二人が、式に参列になった。
彼は春日野火葬場に於いて、一等にて火葬になった。イエス団始まって嘗て例のない事である。彼はラザロの如く死して恵まれている(葬礼代三十六円也)。

一月三十一日 木 晴
絹井喜一郎妻の身の振り方に就いて相談を受け、協議の結果、神戸孤児院にお世話になる事になった。
絹井氏の葬儀料金九十七円也は、山口の兄さん達が支払う事となった。
香料二十円余と保険組合の給付金は、全部細君に渡す事になった。之で少しく安心した。
吾妻学校講堂に於いて、貧民慰安のため活動写真を写した。
家なき子と題するもので良い写真であった。入場者約千二三百名、何れも皆喜んでいた。
僅かに四十円で之程多数の者に満足を与うるは、実に易々たる事である。

二月一日 金 晴
喜一郎氏の夜徹で少しく風邪を引き、又後の始末や思案で少々気分が悪く、ゆっくり一日休めば回復するものを。

二月二日 土 晴
貴衆両院ともに政府は人気を失いつつある。
全く無能呼ばわりせられつつあるが、それでもどうにか議会だけは通過するのではないであろうか。
政治家とは政権かじりつき屋である。一度喰らいついたら最後、だにの如くである。然し、時は必ず裁くであろう。

二月三日 日 晴
朝は井上君が罪に就いて述べ、夜は賀川先生が神の摂理に関して話された。
最後に、本年はイエス団の新築をしたいとの話であった。
全く同感で、家なくしては仕事が出来ない。
新川にイエス団を設けて二十年である。もう会館を設けても善い時分である。
神様は適当に導き給うであろう。

二月四日 月 晴
河田清治氏より、イエス団に献金弐壱拾円を送付して来た。弟喜一郎氏の世話で幾らかの犠牲を覚悟していたものを、却って寄付された。
これを以ってイエス団の建築基金に充てる事にしたい。

二月五日 火 晴
最近、強盗の増加した事実は、例のないことである。殊に、説教強盗なんか嘗て聞いたことのないものである。
又、襲う家も、従来のものとはその質を異にしていて、婦人名士や紳士を目がけている。誠に危険な世の中になりつつある。
時は文明を誇り、その取締りの警察と来ては、世界一を誇る日本の、その又一番の都の東京や大阪に於いてである。
東京の青年団七万人は、之が防衛に当たるとは、何という皮肉なのであろう。

二月六日 水 晴
イエス団の親睦会である。夕食を偕に御馳走になった。
牛肉のすき焼きで、青年諸君、大いに意を得た事である。
時は議会中である。民政党は、総括的不信任案を上程すると言う。どんなことになることやらさっぱり解らない。
日支の交渉は、甘く運びつつあると言うが、日本の外交は確かに失敗であった。支那の国民政府を認めない等、考えていた事が間違っている。
孫文は失せても、三民主義は支那を支配する。之が政府を認めない訳には断じてゆかないと思う。

二月七日 木 晴
今日は美那の誕生より三ヶ月である。
最近余り肥らなかったが、ずっと確りして来た。子を育つるは楽しみであると言うが、成程と思わされる。美邦の顔を見るは、何よりの慰めである。
美邦の教育の大切なるを思うては、毎日読書する。
赤ん坊は、卵より分娩までに十億倍し、出世後は丈において三倍、体重が二十倍、筋肉が四十倍、大脳が三倍に過ぎないと言う。
体内生活が僅かに九ヶ月で、体外約五十年であるが、その成長の割から言えば、体内の期間が遙かに長かったことになる。

二月八日 金 晴
五十年来ない水飢饉だと言う。表日本全体が、水に乏しくて甚だしい。処に於いては、バケツ一杯の水が一銭で売買され、九州の或る地方では、湯屋が休業し、徳山では軍艦への給水不能となったと、新聞は報じている。
夏の水不足はよく聞くが、冬の不足は余り聞かざる処である。

二月九日 土 晴
民政党は、内閣の総括的不信任案を上程すると言う。
田中総理は国民全体から信用されて居らない。日本国民は、凡て不信任であると言うも過言ではあるまい。
然し、採決では政友会が多数占めて居り、床次新党が政府の味方である以上、不信任案は通過しないに定まっている。
敏子が渡辺清春氏を紹介し、同伴で来訪し、家の客となった。初対面での印象では、極めて穏やかで善い人の様である。青年ではあるが、女性的なほどやさしい。

二月十日 日 晴
朝の説教は、十字架の精神と題して述べた。夜は、黒田氏の救いの意義に就いての説明があった。
朝鮮から平井氏が来訪し、急に三名の客で、家の中は大変な賑やかさである。
客に対し、御馳走の意味で鶏を一羽料理した。

二月十一日 月 晴
紀元節で、日曜日以外の休みで何だか心から休息し得る。
不信任案は遂に否決になった。予想通りであって、敢えて不思議とも思わないが、浜口民政党総裁は、国民の言わんとする意を述べた不信任案は否決になっても、議論に於いては、政府側は常に圧倒され勝ちである。
渡辺氏及び敏子を鉄拐山に案内した。
二人は近江に向かって帰った。
岸部氏と近地氏と両名から、美那に対するお祝品を貰った。

二月十二日 火 晴一時雪
久し振りで、紀元節の御下賜金の分配にあずかった。
イエス団は、何年間も忘れられていたが、本年は何を考えたか分配せられた。
ロスアンゼルスに帰る高橋を通じて、お土産物の書物二十円を、イエスの友会の人達に送付した。

二月十三日 水 晴
千狩り水源地に出張し、供給人夫に関する打合せをなし、終日を費やした。
ユキ子が病み且つ美邦の世話で疲労しきっているので、止むを得ず祈祷会を欠席した。
毎年紀元節前後は寒いのであるが、今年は一層寒い様に思われる。
平井氏は平城より小樽に転勤になるため、午後八時三十八分の列車で出発した。

二月十四日 木 晴
美邦の生後百日である。体重一貫三百三十匁に達した。
一月は消化不良で余り発育しなかったが、健康回復してグングン大きくなりだした。この調子で育てたいものである。
今日まで、父なる御神の恵みと守りに依り生育した事を、心から感謝を献げ奉る。何うにかして、彼を立派なものに教育しなけらばならぬとの一念が、心から寸時も去らない。
唯々彼の親であるのみでなくして、実に善き親たらん事を望む。

二月十五日 金 晴
絹井喜一郎氏の妻君の置き場に困ったが、神戸孤児院に定ったので感謝する。
子供講座四冊を読んで、実に有益であった事を嬉しく思う。

二月十六日 土 晴
自分の将来を、繰り返しては考えて見る。
何うした仕事をするかと、今更の如くにそれを感ずる。
伝道をウンとやりたくもあり、又不安にも思う。
では、現在の職に終生を打ち込むや否やに就いても、何だか決心しかねる或るものがある。
父なる御神の導きを祈ろう。

二月十七日 日 晴
礼拝説教を井上氏に述べて貰った。
日中は、湯殿の清潔と、煙突とボイラーの清掃をし、夜は自分が説教した。

二月十八日 月 晴
絹井定子は、神戸孤児院へは行かないと言う。何か働いて自活の道を立てると言う。彼が病気するのが目の前に見ゆる様であって、何だか不安でならぬ。

二月十九日 火 晴
聖書之研究を読んで、大いに考えさせられた。
如何にもして、伝道しなければならぬ事を、痛切に感じた。或る確信を得た。
よし一層の努力を以って、神の国の事業のため、死を決して働かなくてはならぬ。

二月二十日 水 晴
少数の集会であったが、静かなる落ち着いた祈り会であった。
誠に祈り会らしい祈り会であった。

二月二十一日 木 晴
求人者懇談会を、神戸商工会議所に於いて開き、自分も出席した。詰まらない会合だと思った。
夜は、保険組合の打ち合わせ会に出席した。
毎晩、美邦を湯に入れるのであるが、今日ばかりは自分が不在のために、ユキ子が入浴さした。
宝塚の歌劇場で、道具方をピストルで狙撃した男があった。劇場外でも二人を撃ち、一人は福来博士の奥さんであった。二名は重症で、一名は死亡し、自分もまたピストルで自殺した。
それが、古木米三郎(仮名)であった。実に驚いた。
彼が二年半前に僕を訪れて、ピス健以上の犯罪に依り、世をしてアアと言わせ、己の名を天下に残したい、と語っていたものを、自分は漸くなだめ、反省を促して、暫しは真面目になっていたものを、何と言う気狂いかたであろう。

二月二十二日 金 晴
全く春の陽気になって仕舞った。もう寒いとは思えなくなった。然し、今一度寒さが訪れるであろう。
こんなに暖かいと、植物は時を忘れて芽を出し、花を咲かせるかも知れない。
今日も又昨日に引き続き、求人者懇談会が催うされるので出席した。余り善い会合でもなかったが、昨日よりは勝っている。

二月二十三日 土 晴
明日の説教の準備をしなければならぬと、土曜日毎に思いつつ、準備の出来た事がない。何かの用事に妨げられるのである。
別に説教にならなくとも、自分の生涯を通じて、それが一つの説教となれば沢山である。

二月二十四日 日 晴
朝は黒田氏が、夜は自分が説教した。朝夕ともに普通より出席者が多かった。
日中は、庭の片付けと、風呂釜のたきつけを割るのに一骨折りであった。

二月二十五日 月 晴
貴族院では、決議案が二十三票の大差で通過した。今日は委譲問題で又騒がしい。
田中の首相も御心配なことであろう。国民からは信用を失い、新聞は筆を揃えて攻撃し、貴衆両院とも反対者を多数に持つ。
これ程嫌われても、尚政権にはかじりついていたいものかしらん。
神戸の市会も土曜日から始まり、百五十万円の予算超過で、増税せなければならぬとは、市長も説明する迄に随分苦心したのであろう。議員は何う考えるか、何う決議するか知らないが、本年は可決するであろう。
ロスアンゼルスから、三十二円八十七銭送金して来た。これで一ヶ月間は助かる。

二月二十六日 火 晴
平井氏が、昨日から我が家の客となった。北海道行きは中止になるらしい。
美邦の笑顔は、神の栄えである。その寝顔は、天使の如くである。
眠っても醒めても、彼の姿は神聖である。彼に依って、聖い神を示される。
自分が彼に教えるよりも、彼に依って知る事が遙かに多いであろう。

二月二十七日 水 曇
故絹井喜一郎兄弟の追悼会を開いた。
彼は、此の世の仕事は、何をさしても不調法であった。従って、金儲けは下手で、貧乏で悩み通した。其の上、病気に襲われて、貧と病とに遂に倒れた。誠に気の毒な一生であった。
然し彼は、罪を悔い改むるには手際よく立派に成功した。
日頃からの大酒をも、ただ一発で之を廃酒した。此の世の生活に不向きであっただけ、彼は天国に入るには適当した性格を持っていた。
第一彼は、欲がなさ過ぎたが、之は天国に入る何等の障害ともならない。
兄弟は、此の世に失敗して、神の国に成功したのであると述べた。

二月二十八日 木 雨
久し振りの雨である。余りに長い間降雨がなかったので、野菜物は何倍もの暴騰をしている。ネギ一本が一銭もしている。
又建物は乾燥しきって、到る所に大火が起こりつつある。
誠に喜ばしい降雨である。

三月一日 金 曇小雨
よく流行した強盗も陰をひそめた。第一の説教強盗も逮捕されたし、一先ず安心の域に達した。
ピストルと剣とを以って金を奪わんとする強盗は取り締まりも出来ようが、陸軍と海軍とを以って世界の弱い国々を、或いは圧迫し、或いは脅威するものをば、容易に取り締まり難い。
然れども、武力に依りて立つものの帰する処は、強盗と同一の運命にあるには非ざるや。

三月二日 土 晴
昨日から奈良の水取りとか、今日から又急に寒くなった。今暫らく寒いのであろう。
今日は宵節句であるが、余り寒いので、桃の節句の感は一つも興らない。

三月三日 日 晴
朝の説教は黒田氏が、夜の説教は井上氏が述べた。
今日の休日も、庭先の掃除から湯釜のたきつけを割る事など、終日仕事はきつかった。然し、働く事が大いなる休息である。

三月四日 月 曇
宗教法案は終に握り潰しとなるらしい。
法律は元来宗教から生まれたものである。それが又、宗教を取り締まる方の出来る事は、何という矛盾したことであろう。之も、迷信を以って宗教として宣伝するものがあるが故に、かかる法案を提出するに至ったのであろう。
兎に角、此の法案が握り潰しとなった事は、現在の宗教に取っては幸せであった。

三月五日 火 曇
今日は事務員の犯罪行為を発見した。困った事をするものである。
僅かの金銭に目が暮れて、遂に罪人となる。何と情けない事であろう。此の始末をつける事が、又一問題である。

三月六日 水 晴
山本宣治代議士が、黒田久保二なる暴漢に刺殺された。
思想から来た反動であろうが、無茶な事をするものである。狂犬にかまれた様な馬鹿らしさである。
山本氏に対しては、誠に気の毒千万である。世には黒田の如き人物が、他にもどれ程多数にあるかも知れない。何と言う暗い世界であろう。
升崎先生の経験談があった。先生は主エスの人である。彼こそ真にエスの弟子であろう。先生の信仰と実行とは泣かされた。
朝方に、殺人鬼の黒田に関する新聞を読み、夕には、主エスに依って新しく生ける恵まれたる奇跡を見た。
明るかる可き朝、暗い心持ちになり、暗き夜は、明るい心持ちを与えられた。
美邦の体重、一貫四百三十匁に達した。感謝である。

三月七日 木 晴
日中は真の春になった。山の方には、一面かすみがかかった。木も草も甦る。
貧乏人にも春は訪れるか。貧民の失業者にも、前科者にも、一度春を恵ませ、新しい希望を与えさせ給へ。

三月八日 金 晴
労働者扶助法案が委員会で可決した。
日本の日傭労働者を保護する法律が出来る事は結構であるが、今少し不徹底である。
神戸の労働保険をして模範的なものとし、之に依る善き貢献をしたいものである。

三月九日 土 晴
美邦の養育、此の世にこんな楽しみものは、又とあるまい。彼は日々成長して行く。
彼の為に、自分自らが大いに成長しなければ、彼に対する我の責任が果たされない。

三月十日 日 晴
朝は自分が、ローマ書四章の幸福に就いて述べ、夜は井上氏が、偉人と死に関して話した。朝夕共、別に変わりはなかった。
この頃珍しく、毎日曜日の礼拝に欠かさず出席する人で、県立工業教授がある。先生は久保田と聞くが、何か感ずる処あって、吾が群れに来ているのであろう。
今日の休日も、消費組合で奉仕に関する説教をし、午後は庭の木の植え替えで労働した。

三月十一日 月 曇少し雨
四月上旬には、ユキ子と美邦とを同道しで、岡山行きの予定であったが、都合あって中止した。若し許されるなれば、秋に往っても善いであろう。
春日野紹介所で、各所の予算分割に就いて協議した。

三月十日 火 晴
吉本(仮名)が、通称勇に凶器を以って顔面に負傷させられた。何れ原因は博突からであろう。時節柄でもあろうが、三宮署から巡査刑事が八人も出張しての取調べはものものしかった。
井上のおっさんの身上に関して、植田のおばさんから相談を受けた。おばさんは、矢張り親切で善い点がある。貧しい無知なのであるが、親切がある。
其の点、僕よりは偉い人である。

三月十三日 水 晴
少数六人が集まって、祈祷会を開いた。誠に静かなる祈り会であった。人が少ないだけ、それだけ心が散らなくて、心ゆく祈りが出来る。
平川兄が、岡山へ職を求めに出発した。兄にも適当な職業がなくて気の毒である。

三月十四日 木 晴
美邦が風邪を引いて少し熱が出た。彼に風邪を引かせない様にと、余程注意していたのであったが、未だ注意が足りなかった。可哀想な事をした。美邦に対して相済まない。以後大いに注意しよう。

三月十五日 金 晴
美邦の風邪が心配で堪らぬ。ユキ子は心配して迷っている。
吸入器を買って来て之を試み、芝さんに診察して貰った。
大した事はなさそうであるが、近所にハシカが流行していて、これに犯されているものが多数にあるので、何だか不安である。
彼を保護するに、我努力のみでは足りない。父のお助けを祈り求めた。

三月十六日 土 晴
山本代議士の葬儀に当たり、その弔辞を述ぶる者をして、或いは中止を命じ、または検束した。酷い葬式もあったものである。
政府の総予算案は、貴族院を通過した。田中首相大いに得意がっている。俺は正しい道、良心に恥じざる行動を取っていると誇っているが、世間では彼は不死身だと言う。
美邦が病気は余程安全の域に達した。感謝しなければならぬ。

三月十七日 日 晴
朝は井上氏が、夜は自分が説教した。出席者に変わりなし。
終日、庭の手入れをして疲労した。

三月十八日 月 晴
職業紹介所各所予算分割の為め、木村社会課長を訪問し、課長の意見を伺わんと各所長協議し、課長宅を訪れたけれども、不在にして要領を得ず帰宅す。
市に奉職する事八年六ヶ月、その間社会課長自宅を訪問したる事、今回の他に一回もなし。

三月十九日 火 晴小雨
朝鮮より社会事業視察の為に十二人、団体を組織して来神し、自分は此れ等の人達を案内すべく、紹介所、移民収容所、共同宿泊所、葺合新川の貧民窟等案内した。
視察団曰く、大阪、京都、東京、横浜等各地を歴訪したれども、神戸程優待したるところなしとて、一同満足し、感謝の辞を述べた。

三月二十日 水 晴
今議会提案中の労働扶助法案に就いて、神戸労働保険組合本部に於いて、三時間に渡り研究した。

三月二十一日 木 晴
美邦の風邪全快したれば、久し振りにて入浴せしめ、且つ体重を計りたるところ、一貫五百三十匁あり。
十五日間に百匁の増があり、病中にも拘らず、よく太りたるを感謝す。
茂氏の訪問ありたり。

三月二十二日 金 晴
福岡県方面委員の労働紹介所視察ありたり。
高山君(仮名)、病気に罹り、病床より使いを寄越し、是非一度来訪して呉れとの事なれば、午後四時五十分訪問す。
君は頭脳を犯され、全くの精神病者となり居れり。視力は全然失い、食欲なく、唯水と煙草とのみを要求す。
彼の病原は、余りに急激に勉強しようと努力したる為めならん。彼の快復の為に祈る。

三月二十三日 土 晴
先日中から来客、敏子殿に平井の御夫婦、三郎君、何れも本日、近江に向かって出発した。

三月二十四日 日 
朝は、最近の所感と題して自分が述べ、夜は、風邪引きで気分悪しき故に欠席す。井上増吉氏の説教があった筈である。
気分の勝れぬにも拘らず、終日美邦の守役を務めて、妻の身体に少しく休息を与えた。

三月二十五日 月 曇
秀吉や信長などの歴史を読んで楽しむ。
彼等が戦争をした代わりに、二宮先生の如く、農業にあれだけの心血を注いで呉れて居たら、日本の農民は今日程困らずに済んだものを。

三月二十六日 火 曇雨
帝国第五十四議会は、昨日を以って終わった。
田中首相は、全身傷病だらけだの、不死鳥だの無能だのと、議会でも新聞雑誌でも、皆が口を揃えて悪口を言われながら、不信任案も否決になり、貴族院での決議案にも、何等悔ゆる処がなかったか、依然として総理大臣としておさまっている。
総理大臣といえば、非常なる名誉の如く考えられるが、田中大臣の如く悪く言われるのは、恥辱でなくして何んぞ。
民政党も倒閣運動には随分努力した様であるが、その効果は見えなかった。
然し、政府案の重要事項は衆議院で通過したのみで、貴族院では引っかかっているのだから、浜口総裁も幾らか心慰むる処があるだろう。

三月二十七日 水 雨後曇
日支交渉は三ヶ月にわたってもめ続けていたが、今度こそは愈々調印の運びとなり、日支の親善が計られると言う。
日本が譲歩したからであるが、悪い事をする為ではなく、互いの親善を計らんが為には、少しは損も忍ばなくては調和が取れまい。
少数の祈祷会であった。河相、堀井の両兄が所感を述べた。

三月二十八日 木 曇
日支間に正式の調印が終わった。
済南事件は、支那のみが責任を負うべきであるまい。日本が出兵したからあの不幸を見たと、多くの人々は解しているではないか。
それを何時まででも同じ事を繰り返して、責任を支那に負わせようとするのは、日本が無理である。
五月下旬には、支那在留の日本兵を撤兵すると言う。そうするのが当然である。
徳さんから、六十六円六十六銭送金して来た。感謝である。

三月二十九日 金 晴
自分は、此の仕事の為には生命を捧げるも可なりと、決心する程の職業を持たない。
現在の職業も、何時までこれを継続すべきであるかが、はっきりしない。
自分の将来も余り長くはない。大奮闘しなくてはならぬが、何の方面にして善いかが明瞭でない。よく考え、よく祈らなくてはならない。

三月三十日 土 曇
野に山に春が来た。枯れ木、枯れ草も、青芽を出しつつある。
早きは花咲き、青葉出盛る。かすみかかり、鳥唄う春にも、人の心は依然暗く、新しき希望もなく、喜びもない。
何故、人間に春が来ないか。罪に死せる人よ、枯れ草甦る。
此の春に、汝ばかりは眠り居るぞ。

三月三十一日 日 曇後雨
朝は井上氏が、夜は自分が復活に就いて述べた。
復活の朝も、美坊はウンウンウンと繰り返しつつ、三拍子で以って、独り礼拝す。
石炭一千五十斤を買い入れた。之で一年風呂が沸く。



 「武内勝日記A」は、愈々次回で終わる。初めにも記したように、戦前の日記はこれのみであるが、よくもこれが残されていたものだと、書き写しながら感慨深いものがある。(2009年9月16日記す。鳥飼慶陽)



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