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 今回の写真は、イエス団の建物であるが、賀川の神戸在住時代は二階を書斎にしていたという。多分、武内日記の書かれた昭和に入っても、この建物だったのであろう。
 ところで、本サイト第8回で、1926(昭和元)年発行の「大阪イエス団教会教会報第1号」を紹介した折、何も歴史的な経過も知らない、何ともたどたどしいコメントを添えていた。
実は今回、四貫島友隣館館長でガーデン天使園長の小川佐和子氏から「四貫島セツルメント 創立80周年」の記念誌「輝け、命」など、貴重な資料をどさりと寄贈を受けた。
いまわくわくしながら読み始めているが、この記念誌の「年表」を見ていると、「1925(大正14)年、大阪四貫島で吉田源治郎を中心にセツルメント事業を開始、1927(昭和2)年、四貫島セツルメント内に大阪イエス団教会設立、吉田源治郎牧師就任」と記されていた。
知らない事が、ひとつひとつ見えてくるのは、嬉しいものである。


 昭和三年十月から十二月

十月一日 月 晴
忙しい一日であった。

十月二日 火 晴
千狩り水源地に出張し、十二月起工の拡張工事供給人夫、打合せの用事のため一日を費やした。
往復自動車。道場駅より水源地地図は、トロッコ水源地をばモーターボートにて、実に痛快なる乗心地であった。トロに乗るは、生まれて初めてであった。
又、天然のオシ鳥を見たるも、生まれて初めてである。
栗が無数になって居り、早きは紅葉せるもあり、松茸の香り高くして、鼻をウゴメカス場所もあり。
帰り、土産には大きな栗を買った。
天気は好し、何という楽しい一日であった。
若し公用でなくして、一日の遊覧の為なれば、之程面白く、自由には十円の教材も不可能である。
殊に感謝すべきは、稲の色つきよく稔っている事である。

十月三日 水 小雨
杉山兄が、迷っていると告白し、自分はそれに関する意見を述べた。
Tさんは、家賃二十四円五十銭の家を借りて、独立することになった。長い間の居候を感謝した。
高比良君は風邪で床に就き、山内兄も病気で欠席す。
河合君は回復して出席した。
富士野から、未だ生まれぬ児のために衣類を送って呉れた。

十月四日 木 曇
僕の様な貧乏人でも、人から見て金持ちに見える事もあるらしく、金をかせと依頼して来るもの、種が切れない。
小は十銭から大は何十円であるが、兎に角、相談を受けるだけは、金持ちに見えるからに相違ない。
貸せという人はあるが、貸すという者はない。

十月五日 金 曇
久原、野村の両家の息子が、自動車にて阪急電車に衝突し、二人とも死亡した。十七と十八の青年を、お気の毒であるは言うまでもないが、通学するに自動車は何んなものかと考えさせられる。
又、一方に於いて考える事は、路地には番人を必ず置かなくてはならぬ。
殺して騒いで間に合うが、番人を置けば安全なものを、一文惜しみ百失いだ。
汽車や電車は恐ろしい殺人機である。とても虎や獅子の比ではない。

十月六日 土 曇
政府は来年度の予算を立てている。予算は年々膨張するばかりだ。
一年一年と負債額は増して行く。此の借金の負担者の責任や重且つ大なり。

十月7日 日 雨
朝の説教は、永遠の我が家、夜は、魂の整頓と題して述べた。
大下君(仮名)は今憂えて居ります。今晩の集会に、先生の前に出られぬとて、一封の書置きしてあった。
彼は実に気の毒な青年である。多分又、性の問題で悩んでいるだろう。

十月八日 月 雨
今日で九月分の伝票整理を終わった。延べ一万数千人分の賃金支払いである。
此の始末をするは面倒であり、つまらない手数潰しのようである。
詰まらない仕事と言えばそれまでだが、一万数千人の生活の保障であって、それに依って、多数の生命が支えられる仕事であるとすれば、馬鹿にもならぬ。

十月九日 火 晴
近江から、義男兄に女児の恵まれた通知があり、早速喜び状を出して置いた。
安産の有無を承知したかった。

十月十日 水 晴
黒田師の九州より帰り土産話があり、祈祷会は三名の祈りがあったのみで、何だか物足りなく感じた。矢張り祈祷会には、皆が祈らなくてはいかぬ。

十月十一日 木 晴
近江の産が難産であった事と聞き、敏ちゃんは病気している由、我々は健康の為にも、よく祈らなくてはならぬ。

十月十二日 金 晴
中学の校長の未亡人が、二十八歳になる息子が病気で困っているが、救いの方法はないかと相談があった。
財産があって、遊んで喰っている贅沢病気である。
貧乏で生活に追われて、苦難に会っている人は随分あるが、金持ちにも天罰によるこらしめがある。

十月十三日 土 晴
好天気が毎日続く。良き秋日和である。
果実が果実店の先に賑わう事は、何も珍しくはないが、之を豊かに恵み給うた御父に、感謝しなければならぬ。
松茸も八百屋の店に並べてある。百匁九十銭である。去年に比較して三倍の高値である。

十月十四日 日 晴
朝は黒田牧師の説教あり、夕は賀川先生の説教であった。
自分は消費組合と垂水の集会に出て述べた。
組合では信仰に就いて、垂水では心の整理に就いて。
垂水でご夫婦に会った。久し振りであった。帰りにダリヤの花を土産に貰った。夫人は病気で長い間患っているが、心は花程美しい人だと思った。

十月十五日 月 晴
日に五時間ずつの読書をするは、余に無理過ぎる。
朝の五時より六時三十分迄、夕は六時より十時迄。
然し、茲二三年は特別に読書したいものである。

十月十六日 火 晴
上ヶ原浄水池に、賃金支払いのため出張した。去年の今月今日に、上ヶ原に往った。満一ヵ年である。
月日のたつは早いもので、今半年すれば、日本一の浄水場が出来上がる。

十月十七日 水 晴
信仰の力を述べたが、晩の務めである河相、堀井両氏の所感が述べられた。
出席者十七名。祈る者は少なかったが、恵まれた集会であった。

十月十八日 木 
芳夫が上神すると通知して来た。何か出来るなら働き度いと、誠に感謝に堪えない。
彼は、遠の昔に此の世の人でなくなると思っていたものを、何かの仕事が務まる程に、健康を恵まれるとは有難い事である。
僕が面倒を見ていたら殺していたであろう。富士野とおばに世話になったから、助かったのである。 

十月十九日 金 
日本の歴史を知るは当然の事である。それを今日まで学ばずに居た無責任を悔ゆけれども、日々知りつつある。日々学ぶことが出来て感謝である。
過去は止むを得ない。未来は希望がある。
愛ちゃんが朝鮮から来るという。何事があるか知らないが、来る者をば喜んで迎えよう。

十月二十日 土 晴
政府が来議会に提出する筈の、労働者扶助法案に就いて研究した。
労働者の業務上に於ける災害の場合、雇主はその傷害に対して全責任を負えとの法文では、事実実行不可能な事が度々あると思う。
第一、雇用者が無資力であった場合何うするか。現在では無資力で労働者を使用しているものは随分あるが、かかる者に法の適用を受けさす事は不可能である故に、之に替うる健康保険法を以ってすべきである。

十月二十一日 日 晴
朝夕とも自分が説教した。
昼は、六七人の友人と鉄男山に登り、松茸一本見付けた。
たった一本の茸が、どれ程の楽しみを与えて呉れたか知れない。
七百年の昔、義経が平家と戦うて勝ち、真実が敦盛の首を切りたる事ども思い起こして、向かいに淡路島を眺めつつ、友と語りながら昼食の弁当を開くも、楽しみであった。
ユキ子が登山したるも不思議であった。今度こそは元気だから、従って子供も丈夫に発育しているのであろう。

十月二十二日 月 晴
十月分の伝票の整理にかかった。又忙しくなる。
藤原氏去り賀来氏も秋田に往く。旧き者は僅かである。

十月二十三日 火 曇小雨
井上増吉氏より小荷物二個送付して来た。氏はもう満州近くに帰っているのであろう。
我と友と社会とを欺いて、上手に世渡りするよりも、欺かざる生活をする為に、慎まなくてはならぬ。

十月二十四日 水 雨
出席者数に変わりなく、杉山兄の司会に依り、同兄の感話に次いで、堀井君の感話があり、祈祷会は終わった。

十月二十五日 木 曇
芳夫が昨夜、馬場氏の宅まで来て居ると、電話で通知して来た。
満五年の病気であった。よく神戸まで出掛け得るの程度に迄、健康を恵まれたものである。神の御恵みを感謝し、併せて、おばと妹の多大なる労を感謝す。
患う者も辛いが、看病人も飽きが来易い。共に疲労するであろうものを、よくも今日まで継続されたものだ。
本年度の失業救済事業が、大体に於いて助役室に於いて決定した。
これで本年も、労働者の仕事が余程多くなる。自分の仕事も忙しくなる。

十月二十六日 金 晴
昨夜から、故郷の話を色々と少なからず聞いた。
十三歳にして長船を後にして、郷里を去った自分にも、郷里の様子を聞くは楽しみである。
野や山や神社、寺、田に川に、魚に小鳥に、考え出せばつきぬ事である。
天国に於いて、此の世の事を斯くの如くに思い出す事も、何時かはあるであろう。
近地姉の就職が決定した。

十月二十七日 土 晴
失業救済事業の打合せを、中央の二階で開いた。
やっと方針だけは見当がついた。一年の経つのも早いものである。
これで日本に於いてこの事業を試みる事、第四回である。
職業教育が出来ていないばかりに、此の種の事業に依る救済問題が起こるのである。今後の青年を、凡て職業教育を授けて置きたいものである。

十月二十八日 日 晴
朝の説教に、勝ち得て余る生涯と題して述べ、夜は再生に就いて語った。
出席者に別に変わりはないが、一家族揃っての出席は、如何にも楽しい様に見受けられた。
昼、湯殿と庭の片付け修理、たきつけ割り等が仕事であった。一日中働いてよく疲れた。
昨日からの来客、道世は今日帰阪した。

十月二十九日 月 曇
井上増吉氏が、十一月六日に帰朝するとの通知を寄越した。
一年半にして米国より欧州に廻って来る氏は、面白い旅行をしたであろう。
何か学ぶ点があったか何うだか、帰って見ねば解らないが、出て行った時と何んの変化もないであろう。彼は活動を見る様な心持で、世界を一周したのであると思う。

十月三十日 火 晴
失業救済事業の追加予算に就いて、渡辺助役と三木庶務課長が書類に捺印しないと拒絶された為に、社会課長は終日、殊に夜まで残ってやっとの事、書類を完全に作った。これにこりて、明年からは社会事業を施行しないと言う。

十月三十一日 水 晴
藤原湊川紹介所長と中央紹介所の賀来書記とが退職に当たり、両氏の為に送別会を開催した。
参加する者三十七名で、市に社会課が設けられて以来の盛会であった。
両氏を神戸市から失う事は、誠に遺憾千万であると、課長は別れの辞を述べた。

十一月一日 木 晴
昨夜の送別会に於いて、自分は真っ先に帰って、残りの人々がどの程度まで騒ぎ且つ飲んだかを知らなかったが、伊東と井上と高木と三人が喧嘩をしたと言う。
紹介所の柄が段々悪くなって行く。品性の下等には驚く。
僅かばかりの俸給を貰って、生活に苦しみながら、なお酒を飲んでは借金を増し、借金しては利息を払い、借金の無い人が少なくて、ある人が多いのに又驚く。社会を救うと称して、自らを救い得ざる人々である。
井上君から、父元気かとの電報があった。元気の旨返電して置いた。

十一月二日 金 曇後雨
誓文払いで、市中は人出の多い事、電灯は御大典の為に至るところに奉祝の意を表して、点灯されつつある。
何だか、十一月の月は働く月でないが如く、人々の気分が浮かれ調子になっている様に思われる。

十一月三日 土 晴
明治節で休日である。十一月三日の休日は懐かしみ深い日である。
明治大帝の天長節を祝う為に、学校で式をなし、後にはみかんやおせんを貰って喜んだ嬉しさを、今尚記憶している。
半日かかってソファーの修繕をした。

十一月四日 日 晴
朝はイエスの使命、夕は貧乏の幸福と題して宣べた。
説教に力を入れて、自分自ら愉快に感ずる。
力を尽くす事は、人の為のみならず自分の為である。以後一層の努力をするの必要を、切に感じた。

十一月五日 月 晴
秋の好晴、言い得ぬ喜びである。かかる日に、空を眺め、青天井を見ているだけで、感謝に溢れる。
自分の如き貧乏人に、金を貸せとの相談が尽きない。
自分に不自由を忍びながら、人にだけは好感を以って金を貸すことの辛さよ。
人知れぬ金融して都合している事も解らず、貸せと言う人もつきぬものかは。

十一月六日 火 晴
井上増吉兄が、欧州より帰朝した。
兄を迎えんが為め(第四突堤は横着の加茂丸)、朝六時前出発した。
兄は元気であった。夜、イエス団で歓迎会を開いた。兄より視察の感想談があった。
土産として、エジプトの織物よりなる画と、印度産の菓子器と、エルサレム製の絵葉書とを貰った。
兄の父に対する責任が、全部終わった様に感ずる。

十一月七日 水 小雨
ユキ子は、昨夜十時頃より軽い陣痛を覚え、今朝四時三十分男児を分娩した。
予定より一ヶ月早産であったが、子は元気である。母体も安産であるし健在で、何より結構である。
今度の児こそ丈夫に育てたいものである。
男児を恵まれしを感謝し、この児が将来、神様の御用を務むる者となる様に、今より神の御手に委ね、神の子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。
天の父の御祝福、豊かならん事を祈った。

十一月八日 木 曇小雨
前日の睡眠不足と過労の疲れか、身体中が少々痛む。
今日も昨日に劣らずよく働いた。
洗濯物の干し場も作った。これで、もつきの百枚でも一度に干せる。雨が降っても安心出来る。
本多姉が朝早く来訪され、祝いを述べて帰られ、更に後より刺身とかまぼことを持って来て下さった。
夜、杉田君と芝さんとの来訪があり、芝さんは白モスをお祝いに恵まれた。
世は御大典で、上を下への大騒動であるにも拘らず、我が家に於いては、家事のみに多忙を極めて居る。
平井の愛ちゃんは九日の夜、細田のお母さんは九日の朝、同日に我が家の人となる事になった。

十一月九日 金 晴
平井の二人と細田のお母さんとが、久し振りで此の家の人となり、お母さんは当分の間の手伝いを、愛ちゃんは暫らくの間、神戸に在住する事になった。
之で安心して仕事に行ける。 

十一月十日 土 晴
今日は御大典、国家こぞって祝意を表し、謹んで休業している。自分も又その一人である。
我が皇室の上に、天の豊かなる祝福あらん事を祈り奉る。
此の国に神の光が輝き、暗きに在る民が一人も残らず、神の御恩寵を感謝するに至る事の出来る様に。

十一月十一日 日 晴
朝も晩も井上君に説教して貰った。
世は昨日も今日も大騒ぎである。祝意を表さんが為には、不真面目極まるものが多くある。然し、責める事も出来ない。あれが最上と心得ているのであるから止むを得ない。
今日は、赤ん坊の名を考えた。その名を美邦と付けた。
此の世を少しでも善化し、義が行なわれ、公平が重んじられ、闇をして明るくするために、理想の神の国を創らんが為め、彼が少しでも国家に善き奉公をなし、我が愛する此の国土を美しき邦となす。
その名が、彼の生涯を通じての予言であり得る様に、彼が成長するに従って、この親の赤誠を理解し、自覚して、彼の名に相応しき者となる様、その為に彼の生涯を、神のお前に献げ奉る事の出来る様に、父なる神に祈り奉る。

十一月十二日 月 晴
梢を東山病院に訪問して、意外にも彼が丸々と肥満し、元気な顔付をして、日頃に少しも変わらざるは、誠に驚いた。
チブス患者にして、これ程丈夫な病人があるかと思わされた。
然し感謝である。数日中に退院出来るであろう。

十一月十三日 火 晴
毎日、日々赤ん坊の顔を見る事が楽しみである。
神の賜うものにして、此れ程大なるものはない。
児と何物とも交換する事が出来ない。山なす宝も、名も位も、この赤ん坊に換えることが出来ない。
これは我がものであって、神のものである。この赤ん坊を、如何に立派に育てるかが、神の私に任じ給うた御命令である。
実に大いなる使命である。此の大任を果たさずして、私は死ぬことは出来ない。

十一月十四日 水 曇
梢の見舞いに、初枝が岡山からかけつけて来た。兄弟の対面、実に六年振りであったと言う。
彼等二人は不憫なものである。せめて二人の娘が幸せに、神の救いに預かり、善き子孫を残し行く事の出来る様に、彼等の為め本当に祈らなくてはならぬ。
殊に梢の為に祈らなくてはならぬ。彼の品性は地の底にあり、向上すべき何物も備えざるが故にである。
祈祷会に出席して、堀井兄と自分とが感話を述べ、一同祈りあった。
敏ちゃんが、訪問に大阪から来て呉れた。

十一月十五日 木 雨
失業救済事業の打合せをなし、本年度施行さるべき事業の大勢を決定した。
帰宅して、美邦が三十九度の発熱ありたりと聞いて驚いた。
彼の為に、絶えず祈ってやらなければならぬ事を教えられた。
自分にもっと祈りがなければ駄目だと教えられた。
唯に赤ん坊のためのみではない。物事万事がそうでなくてはならぬ。

十一月十六日 金 曇
御大典奉祝の為に、熱心過ぎてか不謹慎でか、風紀紊乱実に甚だしきものがある。余りに無智である。
一日家に在って、赤ん坊の顔を見詰めた。
先に、益恵と喜与子とを失いし代わりに、美邦を与えられた様な心持がする。
美邦の容姿が、先のそれによく似ている。

十一月十七日 土 曇一時晴
日本の国より偉大なる人物を産まなくてはならぬ。
現代の如く、金の事ばかり考えて守銭奴になっていては、人物は生まれない。新しき意気をつくり、大人物を出すの空気をつくらなくてはならぬ。
自分も、余りに詰まらない世にとらわれていては駄目である。

十一月十八日 日 曇
朝夕共に黒田氏の説教あり。
朝に於いては、賀川先生の伝道旅行の報告があった。
サッポロは全国何処にも例のない伝道の容易なる処であると言う。その理由は、クラーク先生の感化が、今尚残っていると思われる。一人の信者の感化も、実に驚く可き力がある。
先生は、日本の存在する限り忘れられない貢献をせられたのである。名のみを知るクラーク先生に敬意を表する。
広元のおばさんが、東京浅草で路傍説教しているのを聞いて改心し信者となり、後に米国の大学に在って、日本に帰って浅草で伝道してみたいと言うの青年のある事を、今井姉は米国に居て発見したと聞く。
神は、伝道の愚を以って人を救うをよしとし給うとは、此の事を言うのであろう。

十一月十九日 月 雨
美邦は、此の世に出て来て、沢山という程ではないが、必要以上の着物を祝って貰った。
野の百合は如何にして育つかを思えと、誠にその通りである。
彼が神の御旨に適わざる生活をいとなまざる限り、彼の生活の保証を、天の父は為し給うであろう。
赤ん坊にして既に余りあり、いわんや彼が働く時に於いておやである。
古い写真帳を出して、先に天国に帰りし喜与子の姿を見て、美那がよく似ている事を知った。
美那は喜与子以上に、此の世に長く留まり、二人の姉のすべき仕事をも、合わせて行なう者となって呉れるであろう。
彼の顔を見ていると、嬉しくて仕事も手につかない。
好きでならぬ読書も余儀なく中止とならざるを得ない。

十一月二十日 火 曇
美那の健康に就いて、富士野が種々と注意し、心配もしてくれる。
彼も僕が児を思うが如く思うのであろう。僕の欠点を数え、足らざるなきを期しつつ、何かと注意して呉れる。
一人を立派に育てるは、小さき世界を一つ造るが如く努力がいる。
何はともあれ、子を養育する位、楽しみな事はない。

十一月二十一日 水 晴
井上、堀井、自分と三人が感話を述べた。自分の述べたる処は、神の保護と期待とに就いてである。
自分が子供に対してもつ愛より以上のものを以って、父は我等に対し給う。
此の愛が、我等の上にあって、我等は感謝、身に溢れるのである。

十一月二十二日 木 晴
細田のお母さんと愛ちゃんとが、本月の九日から手伝って今日まで助けて頂いたが、二人とも近江に帰る事になった。
美那を此の世に迎えんが為に、かくも遠くから出張して貰った。
彼が為には、親以外の者までが、如何に労する事であろうか。吾々が生まれた時もかくありしかと、自分の出生に就いても有難く思う。

十一月二十三日 金 晴
杉山君が来訪あって、東京の木立君が辞職したと言い、又自分には木立君の後任を務むるよう、賀川先生から命令があるが、自分が行くとも、如何とも才はなく、唯恥をかきに往くに過ぎないが故に、自分は上京したくないと語った。
東京の産業青年会は、六千円の借金をしてどうにも首の廻らぬと言う。何うにかして、立ち行くようしたいものである。
方面委員分会長を訪問した。

十一月二十四日 土 晴
神戸労働保険組合の嘱託医懇談会を平和楼に於いて開き、二十名が出席して協議事項だけは協議したが、何の決議も定まらなかった。
但し、組合そのものを理解する為には、絶好の機会であったであろう。
事業は、規約や組織ばかりでは成績は上がらない。殊に、保険組合事業は医業である。その医師が、凡てをよく理解し、好感を以って援助して呉れなければ成功しない。

十一月二十五日 日 
朝は黒田師の説教あり、夕は自分が述べた。
何だか自分ながら気抜けの感じがして頼り少なく思った。
説教には充分準備して語らなければならぬと思いつつ、常に怠っている。
多忙な身であり、尚且つ美那が出生後は、家の内に客あり、用事が増し、一層説教の準備の出来ざる事を遺憾とす。

十一月二十六日 月 曇
聖上の御大典が終わり、本日京都を去らせられ給う。
本月は、日本国民全体が祝意を表し奉り、陛下の御健康と御光栄と、昭和の聖世いやが上にも向上発展し、日本の国に幸多からん事を、真実こめて思考し、又祈るの月であった。
日本の国はうるわしい国である。

十一月二十七日 火 
馬場のおばさんが病気に罹り、初枝がその看護に行かなければならないらしい。
病人の看護の出来る者は、何処に於いても仕事の多い事である。人の喜ぶ且つ為になる奉仕である。人の病苦を少しでも忍び易く、又一日も早く癒えんが為の仕事である。
一看護婦といえば、いやらしい職業婦人の如く世間は言う。然し、その仕事は尊敬すべき業務である。

十一月二十八日 水 晴
高山君(仮名)が、一度出て来ると一言残して、家出した儘帰宅しないと聞く。其の後何処に居るか、何等の手掛かりもなく、探す目当てもないと言う。彼が何処に往ったかは知らないが、多分神戸には居ないであろう。
彼は神様の為には、無給で喜んで働く意思を有する。彼の食う保証をすれば、彼は此の地に留まって、貧民窟で奉仕するのであったであろう。
然し、彼の生活保証は、目下のイエス団では不可能である。又彼に再び消費組合で労働する事を勧めた事も、彼の不満足であったであろう。
まあ去った者は如何ともする事が出来ないが、彼が如何なる地に在るも、父なる御神とも在し給うて、彼を導き守り給わん事を祈る。
金井(仮名)、太田(仮名)、高山(仮名)の事を思うて、涙ながらに祈った。彼等を思うと泣けて堪らなくなる。

十一月二十九日 木 曇
大阪地方職業紹介事務局管内事務打合会を大阪中ノ島公会堂で開催、自分も市の命により、出張参会する事になった。
職業紹介の事務上には重大なる問題なるとも、日夜考える人生問題に比較して、いと小さきものの如く思う。

十一月三十日 金 晴
今日も又大阪に出張した。日本の教育方針の過たれる一点は、職業教育であると思う。然し、現在の資本家に適合したる職業教育を施して、之を資本家に屈従せしめる事も、大いに考慮するの必要ありと思う。

十二月一日 土 晴
春日野紹介所に於いて、伊藤貞行氏の招待を受け、夕飯の饗応に預かった。
唯一度社会課長に紹介したる事に依り、彼が市に奉職する事となった。その事に就いて感謝の意を表し、御馳走して呉れたのである。人の世話になりたる思いを覚えての厚意である。自分は、誰に対しても、かかる事の礼の欠けたる者たる事を思う。
平井の愛ちゃんが近江より来たり、又我が家の客となった。彼が夫婦間に於ける凡ての問題が融和され、円満なる家庭を作り得ん事を望む。

十二月二日 日 曇後小雨
朝拝に於いてキリストの十字架の誇りを説いた。集まる者、僅かに自分を合わせて七名であった。オルガンをひくものなく、出席者も少なく淋しい集会であった。然し、自分に於いては有益なる集会であった。
夕拝は、小さき群れよ恐るな、との聖言葉の説明をし、之又自分に自分が教えたのである。
神の国は神の子達を通して現れると述べて、世をして神の国と為すには、大なる建築物よりも、神戸第一の長者よりも、知事よりも市長よりも、我等に大なる責任のある事を語った。 

十二月三日 月 雨
東京の松村君からの便りに依れば、藪下兄に女児が恵まれたとの事である。
実に不思議である。遠くの昔に此の世の人でなくなっていると思われる人に、二人迄も子供を恵まれるとは、藪下兄の人格が夫人をして活かしめているのであろう。何はともあれ、大いに兄の為に感謝す。
貧しき人達に対しての年末の奉仕に就いて、杉山兄が相談に来訪された。少しでも多く、より善き御奉仕をしたいものである。
美那の体重八百二十匁あり、生後二十六日にして壱百八十匁肥った事が解った。之で彼は、早産児の普通以上の成績を納めている。神に感謝す。

十二月四日 火 晴
日比生清八兄が、クリスマスの手伝いに上神しようかと問い合わせて来た。
彼の為にもイエス団の為にも善い事である。人は神の聖旨を学ぶ為に、奉仕しなくてはならぬ。これなくして、本当の父の心は解らない。
美那の内祝いの印の為に、何か餅でも搗いてはとも考え、平井の愛ちゃんと大丸迄観に行った。
食料品部の美しくて割合に安価であるには驚いた。資本家は金儲けのためには、何んな事をもするものである。労働者に此の知識はない。

十二月五日 水 晴
日比生氏に、至急上神するように手紙を書いた。
クリスマスを目の前にして、古着市に、祝賀の贈り物、正月餅の分配等に関した、奉仕に就いて祈った。祈り会らしい会であった。
美那の内祝いの印ばかりの菓子を、きねやに注文した。都合五十一の数を作る事にした。菓子代金五十三円也とは、貧乏生活者には少なからぬ負担であるが、彼のために止むを得ない。

十二月六日 木 
林田紹介所の加藤氏に、キリスト教を述べて置いた。何かの糸口になってキリストを求めるに至らば幸いである。
美那の便の状態が少しく不消化の様に思われる。此の一点が心配でならぬ。
彼の為めに勉強が出来なくなり、夜充分眠る事が出来ない。
然し、これが親の務めである。我が親が、かくして自分をも養育せられたのである。物も力も心も皆、彼のために打ち込んで、まだ足らなく思うとは、親心とは何という有難い事であろう。
天の父が、我等の為に今尚その通りで在し給う。

十二月七日 金 晴
御大典は済むし、第五十六議会は近くなって来るし、政界が動き出した。一番態度の曖昧なのが床次氏である。
対支問題で愈々支那に乗り出す事になった。支那に往って何うする考えであろう。
来議会は、田中政友会の御大と相提携して、同一歩調をとるのであろう。こうなれば、来議会も無事でもないかも知れないが、切り抜けだけは間違いなかろう。
ライオン大将とんと運が廻らない。政友の天下でも民政の天下でも、大差はないだろうが、政友会が矢張り根強い何物かを握っていると見える。それは地方に於いてである。
日比生氏が応援に来て呉れた。

十二月八日 土 晴
今日から日比生氏が、イエス団の十二月中の仕事を助けて呉れる事になった。杉山氏も片腕出来た訳である。
昨日から今日とで、美那の名披露目の内祝い菓子も配って済んだ。彼の成長が、何よりの楽しみである。
井上増吉氏も、十一月二十四日からの旅行を終えて帰神した。

十二月九日 日 曇後雨
朝夕ともに井上増吉の説教であった。徳広氏が、井上氏の説教は講談だと言ったが、やはりそうだとつくづく思わされた。
御戸の教会の牧師は、八ヵ年勤めて今度首になった。
子供は五人あり、手当てもろくに与えずに失業せしめた。然も、別に取り上げる程の欠点もなかったと言う。
その代わりとして或る教会で六ヵ年働いている。牧師を給料の点で引き入れると聞く。
先に神戸教会の米沢牧師は十八ヵ年牧会した。その羊から追い出された牧師の悲哀をしみじみと感じた。自分の牧師にならざりしを感謝す。

十二月十日 月 小雨後晴
失業救済事業、愈々本日から着手となった。
本年度施行の事業は小規模なりと雖も、今日から起工する事は、当分日庸労働者をして生活の保証となることである。
日本の失業者救済事業は、単なる土木工事の百万円千万円で救済出来るものとは根本から違う。
日本は将来移民するであろう。それも一案である。然し、現在の如く多産でろくに教育もせず、生活の保証もしないでいる事は、何よりの危険である。
何うしても産児の制限に依り、より良い子供をよりよく教育し、彼等の時代の為に、その生活の安定を計って置かねばならぬ。
愛ちゃんは、今日岡山に向かって出発した。来神以来三十二日にして去った。
内地に帰るの必要なきものを、気まぐれで遊びに来て、無駄な時間と金とを消費した。然し、朝鮮に在って平井を愛するの大切なるを悟って帰るは、彼の為に有益なる教訓である。
それだけを悟りに、神戸迄遙かに出て来たとしても価値少なくないかもしれない。
美那の体重八百九十二匁、彼は日々に肥りつつある。

十二月十一日 火 晴
美那の為に毎日の読書が中止になった。又近々に読める様、時間の繰り合わせをしなければならぬ。
彼に対して自分の為す可き義務が多くある。そうしてその中、自分をして全からしめるの努力は、最も大切なる事である。
彼への最大の遺物は、自分の人格である。此の義務を怠っては、彼に対して相済まぬ。

十二月十二日 水 雨
今日の祈祷会は、堀井、井上の両兄が感話を述べ、自分は一言も語らなかった。全く珍しい事である。
唯、祈った時には、人の心を知り、神が兄弟達の心に如何に働き給うかを知る為に、沈黙して聞く事が自分の務めである。
人に語るばかりではいけない。時には人に聞かなくてはならぬ。
美那の体重九百十匁。

十二月十三日 木 晴
初枝が岡山に帰った。彼の結婚の為に祝福してやらねばならぬ。彼の兄弟は梢一人で、その一人が不良な娘である事を考えると、彼等の二人が可哀想になる。せめて一人をでも幸せにしてやり度いものである。
梢は電報で金を直ぐ送れと言って来た。何円いるのか、何うして必要なのかさっぱり要領が解らない。

十二月十四日 金 晴
井上増吉氏の職業に就いて、長い間心配していたが、課長と相談の結果、社会課に於いて勤務すべく採用の了解を得た。これで一つ荷が卸せる。感謝である。
木村課長が、此の相談を容易に承諾された事を嬉しく思う。不採用に決定していた山口源二氏も又採用する事になった事を結構と思う。

十二月十五日 土 雨
紹介所員一同(東部)が忘年会を開いた。自分も止むを得ず仲間に加わって御馳走になった。此の催しの為に家の鶏が犠牲となった。

十二月十六日 日 晴
朝拝夕拝ともに、井上君に述べて貰った。
夕拝に井上君が語った内に、戸梶鶴子なる看護婦を職業とする人が、去年イエス団の集会に三度出席し、自分の説教を聞いて感ずる処あり、以後教会に出席はせざりしも、自分の手に入って来る一銭と二銭との銅貨をば、悉く集め置き、之を年末に行なうクリスマス祝賀に、正月の餅との費用に献げるとて、小さくはあるが、紙缶に一杯寄付された。本人もその金額が幾等なるや之を知らずと言う。
貰って後に計算の結果、五円七十三銭五厘ある事が解った。誠に奇特なる婦人である。自分は何んな話をしたか全く覚えていない。然し、戸梶姉の此の美しい厚意は、自分の生存の限り忘れ得ない。
レプタ二枚と一時に献げる事も感心であるが、銅貨と雖も之を一ヵ年間集める努力は容易でない。一時に感じて一時に多くを献げるより以上に尊い心掛けである。
鶏舎を壊し、乾燥室を造る為に終日働いた。
浜口民政総裁が八千代座で演説した。

十二月十七日 月 晴
今日一日請暇を貰って、昨日からやりかけた残りの仕事を片付けた。
腕も腰も痛むが、時には労働もいいものである。
宇都宮から書面が来た。豚が五つに、鶏が二十五になって、子供等は蛍狩りで夢中だと喜んで居る。喰う心配はなく、人間がのんびりする事であろう。

十二月十八日 火 晴
子供が為に凡ての調子がくるって来た。
一番困っているのは妻で、オムツの洗濯だけでも余程仕事が増えたというが、子供一人を育てるは容易でない。
然し、これを育てる事に依って、子に対する愛情を学び、親の愛が解る。何と人生は奇妙なものである。

十二月十九日 水 晴
堀井兄と自分とが感想を述べて、祈祷会を開いた。
人生の短きをつくづくと感ずる。何の事業も為さずして終わるかも知れない。
恥ずかしい事ではあるが、如何とも方法がない。せめて潔い心だけでも維持したいものである。

十二月二十日 木 晴
雪が降り、道路に蒔かれた水が氷っている。
クリスマスが近づいて来ると、定った様に寒くなる。冬に寒いので何の不思議もないが、余りに冷えると、まんざら無関心でもいられないものである。
杉田君が来て三宅君の心配をしている。杉田君はよくも三宅の世話をしたものである。肉親の家族の者もなし得ない面倒を見ている。感心な男だ。
富士野の手紙に依れば、初枝は結婚する事になるらしい。彼が生涯を主に献げ、主人の伝道を助ける事の出来る様祈ろう。
富士野もよく初枝の世話をして呉れる。喜んで、初枝の為に借金するとは、よく決心して呉れた。富士野にも偉い点がある。

十二月二十一日 金 晴
美那の体重、壱貫拾五匁、生後四十五日。
十二月には必ず賞与金を頂く。今年も又貰った。金九十六円也。俸給の他に貰った金である。感謝して受く可きである。
但し年々賞与金を減じて行く。去年と比較すると五十円は少ない。去年より給料を多く受くる事、金四円也。賞与金を減じられると、差し引き収入は年々少なくなって行くのである。之なら給料を増して貰わぬ方が却っていいのであろう。

十二月二十二日 土 晴
本年の暮れも又クリスマス気分になった。
古着市に、餅の分配、子供の為の祝賀、何だか忙しい気がする。
町に出て、至るところのショーウインドーにクリスマスツリーを樹て、サンタクロースのお爺さんを吊り下げ、ケーキを置き、何だか教会の店開きの様である。キリストの降誕祝日も、商人に利用さるる事甚だしい。

十二月二十三日 日 晴
富士野から美那の為に、ジバンと玩具とを送付して呉れた。
美那の眼も、少しは見える様になったらしい。色のついたものには、特によく眼をつけて来る。
朝は、井上君がクリスマス礼拝の意味で説教し、夜は、古着市入場券の請求者が酒を呑んでやって来て、大声で怒鳴るので、説教が中止になった。
其の後、十一時まで古着の整理をした。

十二月二十四日 月 雨
新労農党の創立大会は、内務大臣の訓令に依り、解散を命ぜられた。
五十六議会は二十四日を以って召集された。
床次竹次郎氏は、支那より帰朝した。氏は多分政府案賛成で、此の議会は先ず安全と思はる。
古着市を催す。

十二月二十五日 火 晴
子供のためのクリスマス祝賀会を催し、約三百の子供を招待した。
貧民窟では、少年も老年も、クリスマスの何であるかが次第に解りつつある様である。
クリスマスの祝いは一般化して来た。善く利用するか、悪く利用するかが問題である。

十二月二十六日 水 晴
成年のための祝賀で、出席者は四十五六名であった。
我等の内に、主キリストのいましたもうを思うて、嬉しかった。
宇都宮に手紙を送って置いた。

十二月二十七日 木 晴後曇
新川のクリスマスのお祝いだけは済んだ。
本年の会計は、杉山氏が責任者となり、古着を貰い集める事から市まで、子供等のためにも、一から十まで重い責任を果たして呉れて、御苦労様であった。

十二月二十八日 金 晴後曇
昭和四年の年賀状を書く為に、二晩を費やした。
文字を書くは下手であるが、真心だけはとめて書いたつもりである。
床敷きに光線を入れる可く、縁の根家を抜き、鴨居の上の壁を取り、ガラスの窓を入れたので、暗い室が明るくなった。何だか気が晴れた様である。
自分の心にも又、窓を設けて、光を導かねばならぬ。

十二月二十九日 土 晴後雨
今日は体全部がだるくて仕方がない。何だか疲れが出たのであるらしい感じがする。

十二月三十日 日 晴少雨
朝夕とも自分が説教した。
朝拝は、一ヵ年の所感述べ、夕拝には、宝の発見に就いて語った。
我が内に、我が家庭に、我が住む社会に、我の生涯に、常に喜びを発見するの必要を説き、内に隠れたる此の喜びを発見すべき事を高調した。
富士野が来神した。用件は初枝の結婚に関してであった。話は順調に進むものと信ずる。

十二月三十一日 月 晴少雨
大阪に行き、灘を訪問した。
芳夫に面会をしたかったが不在であったので、止むを得ず引き返して、阪急の終点で、偶然にもばったり出会った。
帰宅後、話は万事解決した。
夜、大丸に買い物に行き、初枝に結婚祝い・銘仙一反を買った。



 昨日午後、兵庫県中央労働センター大ホールで、金沢の川柳歌人・鶴彬の短い生涯を映し出したドキュメンタリー映画「鶴彬こころの奇跡」を観た。この「武内勝日記」の時代と重なる作品でもあり、強い印象を残した。(2009年9月14日記す。鳥飼慶陽)




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