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 お宝発見「武内勝日記A」(5) 昭和3年8月〜昭和4年6月
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  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」


 この時期、「武内勝日記」に「井上増吉」というお方が度々登場する。ここで生まれ育った方で、未見のものであるが『貧民詩歌史論(貧民詩訳論)』第1巻(八光社、大正13年)、『貧民窟詩集 おゝ嵐に進む人間の群れよ』(警醒社、昭和5年)といった作品が残されている。
 ここには、井上増吉がロンドンから武内勝宛に差し出した絵葉書を1通添付しておく。井上のこの長期間にわたる視察旅行の旅先(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリヤ)から送られた武内宛の絵葉書は、今回の「玉手箱」に現在6通保存されている。


 昭和三年七月〜九月

七月一日 日 晴
朝は、煩悶を何うするかと題して、馬太伝六章の終わりを説明し、夜は、賀川先生、道場破りとの題でお話があった。
裏にガラスの屋根を作る可く、大工工事をして見たが、失敗であった。
然し、体だけは充分疲労した。でも経験にはなった。一つかしこくなった。何も勉強じゃ。

七月二日 月 曇一時晴
保険組合の広崎(仮名)、光本(仮名)の両氏が事務上の不都合で責任問題が起こり、本部から解決に関する相談を受けた。結局、両氏は辞職する他に途なきものと思う。
夜は、杉田氏の来訪あり、同一の件で相談があったが、方法は一つしかない。
気の毒ではあるが、職に止まることは不可能であろう。
両氏を救う為には、少なからず努力してきたものを、凡ての労も無駄であった。
広崎氏(仮名)の救いの為には、三百三十円の金融もしているものを、彼等の心の新たになる迄、何仕事をさすも同様の結果を見るの他はなかろう。心の病とは言うものの困ったものである。

七月三日 火 曇一時晴
井上君から書面が来た。ニューヨークを発ってロンドンに往く、書物を七十冊買って発送したとある。
隣の家主さんの御親切で、ユキ子は山桃を取りに参加した。
果樹を自分の手にとって食うの楽しみは、幼少も今も変わりはない。
唯、少年時代には許されて、今は許されぬだけである。

七月四日 水 晴
神戸労働保険組合の事務員広崎(仮名)、光本(仮名)の両氏に、辞職を勧告した。両人とも之を承諾した。
然し、今より失業者となって、今後何うして生活するであろうか。
労働も出来ないし、技術はなく、信用して呉れる友はひとりもない二人である。誠に気の毒でならぬ。
人を採用する際は、充分に選考して、採用した以上は、滅多に解雇しない事である。
殊に今後は、人に辞職の勧告等、一切すまい。
失業をさすことは、監獄にやる以上に、本人に苦痛を与える。
まるで人を殺すことである。
ああ、再び此の残酷を繰り返してはならぬ。

七月五日 木 晴
梅雨はすっかり晴れたらしい。日に日に暑さが増して来る。
今日は土木課の池田技手より、深田氏(仮名)をして余儀なく辞職せしめなけらばならぬ相談を受けた。旅行中の本人は、横須賀より帰神した。直ぐに辞職を勧告した。
昨日は二人に、今日は一人に、殊に昨日の夕方、自分は再び人に辞職を勧めない決心をしたものを、今日にそれを実行せねばならぬとは、何と言う矛盾であろう。
我をして之を行なわしめるものは誰か。
彼も暫らく沈思の後、遂に辞職を決心した。

七月六日 金 晴
遂に、紹介所内で働く事務員五人が、五月以降に解雇される訳である。
一人ひとりの行く末を考え、借金の整理をしていかなければならぬ。
自分の仕事も又苦しい。失業以上の苦痛を感ずる。

七月七日 土 晴
日本で嘗て試みられなかった防空戦が、大阪で五、六、七と三日間開催になった。
世界は依然として戦いの事を学ぶ。
イザヤの予言はたがわぬ。世界に本当の平和を来たらしむるものは、神の子である。全人類の頭が、神の前にかがむ時迄、継続される殺人罪であろう。
この人と金とを以って、善き道路が出来る。失業者の救済が出来る。貧しき者を救い得る。人の霊魂を罪より救うことが出来る。
斯うして有効に使えば、随分有効に使えるものを。

七月八日 日 晴
朝は黒田、夜は賀川の両先生よりの説教があった。
賀川先生の説く所は、矢張り違っている。
普通牧師の説教ではない。本当に真理を伝える人である。
又新日報社の飛行機が、初飛行に失敗して、帆船のマストに引っ掛けて、滅茶苦茶に破壊した。飛行機の壊されたのは、之が見始めである。

七月九日 月 晴
昨夕の桃か刺身が中毒して、酷い下痢をした。
夜は眠られず、昼は食物を摂らず、仕事は多く、全くフラフラになって終った。
このフラフラの一日中に、西部労働紹介所新築の案は確定した。身体はフラフラでも仕事は確かであった。
帰宅して聞けば、中毒者は家が皆であり、お隣も同様であったと聞いて、中毒の原因が魚にあった事が解った。魚は新しいものであり、喰った量も普通であって、この罪が我になくて、魚そのものにあったのである。

七月十日 火 晴
今日一日、請暇を貰って静養した。
中毒した魚を喰った量は僅かであったが、害された度は大であった。
少量の毒が、五尺に余る体を、時にはなやまし、時には生命さえ奪うかと思えば、恐ろしいものである。
過去に於いても、食物に注意する事は、普通人の数倍であると思っているが、それでも矢張り失敗がある。更に注意を要するのである。

七月十一日 水 晴
罪の性質にも色々の見方があるであろうが、その一つは、秘密にする事である。今ひとつは、之が報いを望まない事である。
我々が善事を為す場合に、出来る限り人に知られぬ様に努むること、又之を行なった労に対する報酬を望まない事である。
祈祷会の出席に大差なかった。

七月十二日 木 晴
岡山から海老を送付して来た。それに替えてコーヒーと紅茶を買って呉れと注文して来た。
日本の田舎も変わった。日本茶で済まず、洋茶を用うる様になった。
十年の間に、凡ゆる方面に亘って贅沢になった。もう日本も、日露戦争当時、否明治維新時代の、真剣と勤勉には帰り得ないであろう。

七月十三日 金 晴
すっかり真夏になった。九十度に余る暑さである。
多数の労働者の汗と油の労苦を思って、せめてその健在を祈らざるを得ない。

七月十四日 土 晴
昨夜の保険組合の理事会に出席はしなかったが、理事者の意見だけは今日聞くことが出来た。
そうして広崎氏(仮名)の辞職手当ては金三百円と決定した。思ったより金額は少なかったが止むを得まい。自業自得である。同情に堪えないが救済方法がない。

七月十五日 日 晴
朝は、テサロニケ前書五章を、夜は、コリント後書六章を説明した。
会衆の数に変化はないが、一人は須磨から、一人は御影から、説教を聞きに来た青年のあることを知って、説教する者のその責任の重かつ大なるを思わされた。
今日は十一人の来客があった。
佐藤親子三人と高比良、河合、中川、山根と三郎君の友人三人とであった。簡単なすしの御馳走を提供した。

七月十六日 月 晴
中塚君が来訪した。信仰談を続けて、彼が信仰に復活する事を、真心と熱心とをこめて、大いに奨励した。
T、金の両氏が訪れて、一婦人を中心とした問題に就いて相談があった。
続けて浅田光子姉が、職業上の相談で来た。
その次に、杉田君が広崎(仮名)、光本(仮名)両氏の身上に関する件で相談に見えた。
どの件も十分や二十分に解決のつかぬものばかりであった。
終日働いて帰って、また夜之だけの仕事があるとは、何という多忙であろう。
然し、どれも放任して置く事の出来ぬ問題ばかりである。そうして相当の解決がついた。
悔い改めに、誤解に、結婚に、離縁に、負傷の整理に、就職に、よく働けた事を感謝す。

七月十七日 火 晴
竹田姉の仕事、河田兄の就職、広崎(仮名)、光本(仮名)両氏の退職手当、月給に依る負債の整理で終日かかった。
夜は竹田、杉田の両人の来訪あり、相変わらず人事の問題に係わる事であった。関係したくないが、関係せなければことが済まない。

七月十八日 水 雨後曇
午後三時頃より頭痛を覚え、帰宅当時は一層甚だしく、それが為祈祷会に出席せず。

七月十九日 木 雨
前日来、引き続き頭痛のため、一日の請暇を得て休養することとしたが、午前より三十八度八分の体温にて、その原因を知るに苦しみたるが、頭痛と熱とはずっと継続して、午後は三十九度に達し、夕方芝医師の診断を受け、扁桃腺と病名がつき安心した。夜は殆ど平熱に帰した。

七月二十日 金 雨
苦痛は感じたるも、前日の故にかフラフラして起床不自由にして、又休養とした。

七月二十一日 土 雨
今日も尚常態に復せず休養す。
全く梅雨の様な降雨で、十七日夜以来、引き続きよく降るものである。之で今年は、去年悩んだ水飢饉はないで済むだろう。
中川君が愈々伊予の松山、捺染会社の技師補助として往く事に決定した。

七月二十二日 日 小雨後晴
礼拝出席したが、後藤君が代理を務めて呉れた。夜も後藤君と森君とが自分の代理に述べられたので、今日の役目は全く友に依って補われた。
中川君が三時半出発した。松山に向かったのである。

七月二十三日 月 曇
今日は五日目で出勤した。頭痛があって常態ではないが、仕事は出来た。矢張り働く事が一番よい。
カタビラセミの鳴き声を聞いた。毎年暑さで汗の中で聞くものを、今年は天候不順の為に、涼しい時に暑そうな声を聞く。

七月二十四日 火 曇
西部の岡山氏の件で、河野氏より相談があった。よくもまあ、これだけ引き続き問題があるものである。
少しずつ読書が楽しめる。

七月二十五日 水 晴
黒田牧師より修養会の状況を報告して貰った。
支那の問題は如何になり行くかを知らないが、実に厄介千万なことであるらしい。
哲学と教育学とを読んだ。哲学は学問の最高なるものの様に思われる。
三十七歳にして、之だけのことしか言えないかと思うと、自分の無学が益々恥ずかしくなる。
読書して発見するものは、我の無知である。然し、読んで幾等かづつの修養にはなっているであろう。

七月二十六日 木 晴
天候も快復したらしい。愈々暑くなるわい。
マルクスの資本論を読み始めた。何だか無駄な、同様な事ばかり沢山繰り返してある。よく理解出来るか何うかは不明であるが、八月一杯には資本論全部を読了したいものである。
今日は多読の不要を知った。本当に読まなくてはならぬ書は少ない。有害なる書物も決して少なくない。

七月二十七日 金 晴
仕事のみは出来るが、依然として頭痛が止まない。読書も仕事も不快で困る。弱い人達に同情する為には善い経験である。

七月二十八日 土 晴
身体の健康に就いて、今更の如く悟った。大いに健康の為に努力しよう。

七月二十九日 日 晴
隠れたる十字架という題で、黒田牧師の礼拝説教があった。夜は、同氏のヨハネ四章の説明があった。
三郎君が朝鮮に向かって出発した。さぞ満足であろう。

七月三十日 月 晴
仕事は多く、働く時は少しまあ一生懸命になって、働けるだけを働く。
河田君、失業の為に色々と心配するが、何分適当なる仕事がないので、如何とも出来ない。気の毒の極みである。

七月三十一日 火 雨
小雨ではあるが、今年は降雨の量が多い。水の飢饉はないであろうが、米作の点が心配になる。
八月には、充分照って貰わなければならぬ。人間とは勝手なものである。

八月一日 水 小雨
ジョン・ウエスレーの日誌を訳しつつある黒田牧師は、ウエスレーは一日平均十三哩を馬で旅行し、一週に十五回の説教をしたと語られた。
自分も所感を述べた。恵まれたる祈祷会であった。
床次竹二郎民政党顧問は脱党した。新に党を樹立する為だと言う。田中首相及び政友会は満足であろう。
それに反して、浜口ライオンは不満に堪えざるものがあろう。分離したり合流したり、何をしている事か訳が解らぬ。

八月二日 木 曇
松本君から書面を貰って泣いた。赤誠こめて返書を出した。

八月三日 金 雨
仕事が多いので思う程に読めない。マルクスの資本論は、八十頁読んだのが今日の日課であった。

八月四日 土 雨
今年の八月程、天候の悪い八月は記憶にない。稲作の為に善き天候を祈る。

八月五日 日 雨
朝、黒田先生の礼拝説教あり。夕に賀川先生の説教があった。
朝は十五六人、夜は二十五六名であった。共に集会者は少なかった。

八月六日 月 曇
久し振りに、妙法寺川尻の海の博覧会を観に行った。
遊ぶことは滅多にないが、松田君が来訪したのと、ユキ子が軽業を生まれて一度も観た事がないと言うので入場した。
軽業を観ると、熟練の偉大をつくづくと感心せしめられる。実に妙を得ている。一つ違えば、生命を失わなければならない。誠に危機にあって自由自在である。
彼等は、綱渡りにも、マリ乗りにも曲馬にも、ブランコにもハシゴの上でも、竿の上でも常に中心を失わない。これさえ間違わなければ、危険に見えても安全の様である。
我々人生も又、神中心の生活さえすれば−と思った。信仰の熟練に依れば、奇跡も行なえるが当然の様に考えられる。

八月七日 火 晴
マルクスの資本論を一巻だけ読んだ。全巻を八月中に読む事は難しくなった。
西部紹介所は愈々改築を決定し、社会、営繕両課長及び自分も加わって実地視察をやった。
自分の務めも解ける日が近づいた。
職業紹介所に依れば、紹介所には専任の所長がいなければならぬ筈のものを、長年自分が兼務していたのである。六大都市、何処にも例がなかったのである。

八月八日 水 晴曇
神の恩寵に就いて述べた。出席者の数は四五名減少していた。
床次さんが新党樹立の計画も、余り振るわないと見えて、傘下に集まる者は僅かに二十名位らしい。団体交渉権も得られないらしい。彼も総理にならずに終わるであろう。

八月九日 木 晴曇
兵庫県の野球予選大会は今日で終わった。優勝者は甲陽中学であった。三対四で二中は負けた。
指定席券を買う為に、七日の夜から神戸市局の前に集まり、徹夜で待つ者が約二千人あった。何と言う熱心であろう。何と言う愚であろう。喧嘩までやって警察署の御厄介になったとは沙汰の限りである。それが大阪でも京都でも神戸と同様であったと言う。尚更である。

八月十日 金 半曇半晴
毎日似た気狂天候の様である。
笠松氏が来訪した。刷子時代からの知友で、今尚関係ある者に、中田君と笠岡君とがある。一度知り合いになった関係も、全然失せるものでないらしい。
三郎君が朝鮮から帰った。然しその足で近江に行った。

八月十一日 土 晴
井上増吉氏から通信があった。今暫らくロンドンに滞在すると。
兄が帰朝すれば何をなすであろうか。新川の産んだ井上を、一人だけでも偉くしたいものである。

八月十二日 日 晴
イエス団の年中行事である、子供の為の明石行遠足を決行した。総員百七十名位であった。
今年は杉山君がいて呉れて、経費全部を貰って呉れたので、自分の責任はなくなった。杉山君の様に、人に金を出さす事も容易な仕事でない。殊に自分に取っては不可能なる一事である。

八月十三日 月 晴
三郎君が近江から帰り、敏ちゃんが同道して我が家の客となった。
夜、海岸に散歩に出掛けた。
来客のあるとき、読書の出来ないのは止むを得ない。
自分の頭も休息を得て善いであろう。そうでもなければ、自分の遊ぶ時は絶えてない。

八月十四日 火 晴
今日は堀井君の訪問があった。田舎伝道を継続するや否やの問題であった。
相談を受けても急に返答の仕方がない。よく祈り考えて見よう。
今晩もまた夜の読書は中止になった。今夜も又止むを得ない事である。

八月十五日 水 晴
淋しい祈祷会であったが、心持の善い祈り会であった。
久し振りに堀井さんの感話を聞いた。
昭和三年度の失業救済事業に関する打合せ会を開いた。年中行事になって止める訳にも行くまい。又実施すれば確かに労働者の利益にはなる。

八月十六日 木 晴
小島謙太郎氏が来訪せられた。二人の友人と(二人とも学校教師)同伴で約三時間、四方山話をした。
其の談話中、失業者の救済、貧民窟改善等に関して、自分の専門をも述べた。
最後に祈りあって別れた。本当に互いに祈り合うことの出来る友程、貴い友はない。
学問があるかないかではない。地位が高いか低いかでもない。貧富の如何でもない。真実の友であり、神の前に於いて全く兄弟として、共に祈り得ることである。
世界全集思想十七回配本を読了した。

八月十七日 金 晴後曇
家の客であった敏子が近江に帰った。
中里愛子殿(仮名)から職業を問い合わせて来た。自分自身がやり度いと。
結婚して居り、夫が健在で働いているのであるから、其の夫を援けて、夫をして偉くすべく務めてこそ、自分も偉くなるのである。
朝鮮と内地に別居しては、相互いに如何に好い職業を持つとも、それは幸福でない。又夫人の道でない。よく悟してやり度い。子供がないから迷うのかも知れない。

八月十八日 土 雨
雨量の多い夏である。今年の夏程、よく雨の降ることは珍しい。
今月は、七月分の清算を済ました仕事の、早く片付く事は嬉しいことである。
暑い時にも拘らず、充分働ける事は感謝すべきことである。

八月十九日 日 雨
父の神の恩寵と題して述べた。夜も自分が、レプタ二枚、信仰に就いて語った。
今日も雨は終日降り通した。

八月二十日 月 曇
井上君から写真を送付して来た。
写真で観たロンドンは美しくある。然し其の美は建築である。
本当に救われたいと言う青年の訪問客があったが、自分不在の為に面会出来なかった。若し許されるなら、一週に一度、此の家を求道者の為に使い度い。
一人の霊を神に捧げるかも知れない。若し多くの罪人をして救いに至らしむ事が出来れば、これに過ぎる喜びはない。

八月二十一日 火 晴
電話局勤務の青年が救われ度いとて、キリストの福音を聞きに来た。
一時間余り、天の父なる神に関して述べて置いた。
かかる青年の要求なれば、喜んで応ずるのである。斯くの如き主の御用に益々用いられんことが、我が心の奥底より、願うて止まざる処である。

八月二十二日 水 晴
全国中等学校野球試合に、松本商業が優勝した。
キリストの我は道なり誠なりとの言葉に就いて語り、心行く祈祷会を営み得た。

八月二十三日 木 晴
天理研究会長大西以下百九十名が、不敬により起訴された、との号外が出た。
神秘主義か迷妄主義かは知らないが、厄介な人達が現れて来る。
五万の信徒を持ち、労働者には無報酬で働かせ、金持ちからは搾取し、己は喉をしのぐ生活をしているとか。然も、天理教開祖おみき婆さんの二代目とか。狂気も甚だしい。困ったものである。
今日も又一青年が求道して来訪した。自分に取っては、こんな大きな喜びはない。天に於いても喜び給うのであろう。父なる御神が。

八月二十四日 金 晴
南米ブラジルの宇都宮から、渡米第一回の通信があった。
彼は希望に輝き元気に充ちている。アブラハムの如くに、多くの者の信仰の祖となるの覚悟のあることは、誠に慶賀に堪えぬ。
家族の者の健康も、子供等の教育も、凡て信仰に依って甘く行くであろう。彼の心の変わらざる為にも祈ろう。
日本は南米に延びて栄ゆるの他に、将来の発展策はなかろう。移殖民の為にも祈らなくてはならぬ。

八月二十五日 土 晴
高比良金蔵君が神戸消費組合を辞職することになった。
彼は全く甦った。救われている。彼は何うかして、今少し凡ての方面に引き延ばしてやらなくてはならぬ。それは又自分の責任でもある。
今夜又、金丸兄弟と隣の家主さんに福音を述べておいた。

八月二十六日 日 晴
武庫川の松林の中で屋外礼拝を行なった。汝等は世の光なりに就いて、自分の所感を述べた。
自分は、最初自らを助くるために、次に自分の周囲を、更に社会を明るくする為に、イエスの言葉通り、世の光となるの確信を持つに至った、と実験談を語り、夜は成功と題して述べた。
武庫川同行者は二十一名で、夜は賀川先生宅で昼食の御馳走になった。
杉山兄の栄を感謝す。

八月二十七日 月 晴
朝日新聞社経営の旅客飛行は、今日第一日の初飛行であった。
朝日は日本で最初の飛行機を飛ばした飛行界の功労者であったが、続いて郵便飛行、欧州飛行と、更に今日の如く旅客の輸送迄可能となった。
金丸君が今夜も訪れた。又語り祈った。

八月二十八日 火 晴
阪急電車、市内乗り入れ問題に関し、市会で重大問題となった。
阪急会社上田専務より黒瀬市長に対し、市が阪急乗り入れを認むる時は、金五拾萬円也を市に、現金にて寄付すると申し出た。市会は、五拾萬円に依って承諾する様なことは四方やあるまい。

八月二十九日 水 曇小雨
最も淋しい祈祷会であった。祈れる者は河田君と自分のみであった。河合君が病気と聞く。彼の健康の為に祈る。
妙な天気である。暴風が見舞うそうな荒れ模様である。

八月三十日 木 雨風
大暴風でもないが、日頃にない強い風である。
新聞に依れば九州、四国、中国は暴風の為めに、かなり被害があるらしい事を報じている。
聖霊の風が日本を吹き捲る時に、日本は新しくなるであろう。吹けよ、聖霊の風である。

八月三十一日 金 晴
今日はすっかり晴れた。昨日の嵐は嘘の如くである。
人生の嵐、荒波も又、斯くの如く起こり、又去るが常である。
物事万事、悲観も楽観もない。かかる世界が我が国であり世である。
来れ嵐、来れ平穏、我等に於いては何事かあらん。

九月一日 土 晴
関東震災五周年である。
今日正午を期し、各会社、工場の汽笛は一斉に鳴らされ、神社仏閣に於いては黙祷を捧げ、一般には質素簡単なる食事を以って満足し、平素のゆるみきった精神に、強き刺激を与えた事であろう。

九月二日 日 晴後曇
朝、黒田先生の礼拝説教あり、全能の神との題で述べられ、夕べも同氏に依って、二里行けと言う説教があった。会衆に変わりなし。
植木の手入れと鶏舎の掃除とが、今日の仕事であった。時々は筋肉を動かさないと、安息の何であるかを忘れる。

九月三日 月 晴
職員の一人、上野氏が県病院に入院した為、久し振り宿直することになった。訪問客があって何も出来なかった。

九月四日 火 晴
宇都宮に書面を書いた事と、デカルトの感情論を読んだことが、勤務外の仕事であった。

九月五日 水 晴
社会課の大原松事氏が退職する事になった。
氏は大正七年、米騒動後、神戸市が公設食堂を設けた時より、主任として就任し、本年九月で丁度満十年に達した。本年六十五歳の老人である。
よく健康にして活動し得た自分も、何時かは六十五歳に達し、又現在の職をも辞する時がある筈である。
出来る限り長命で、出来る限り健康で、死に至るまで職務に忠実でありたい。
黒田先生の感話があり、後祈って散じた。

九月六日 木 曇後雨
雨の宿直であった。馬太伝と馬可とを読んだ。先のは一時間四十分で、あとのは一時間で読める事を、今日始めて経験した。

九月七日 金 晴
前科一犯の壮年が来訪し、就職について相談を受けた。
彼に天の父とキリストを紹介して帰した。職は握らなかったが、内に於いては何者かを得た事と思う。
兎に角、前科ある者の就職位、困った気の毒は少ないであろう。
前科者をば、前科あるが故に就職させないとすれば、むしろ監獄より出さない方が、彼等の為である。
社会は前科者に対する考え方を一変しなければならぬ。
犯罪を少なくし、犯罪者を善導する為には、生理的にもあれ心理的にもあれ、何処かに欠点の多い刑余者に対して、彼等に失業せざる様、危機の置かざる可く、社会は務めなくてはならぬ。然るに事実は全く之に反対ではないか。

九月八日 土 晴
民政党の中から不平分子四名を除名した。これで後は結束が固いか何うか、それが問題である。
寄者は別者であって、去年憲本合併したが本年は分裂である。十年後には何んなことになるやら、政民共に現在の如き勢力を維持しているか否かは、頗る疑問である。
井上君が裸体の絵を送付して来た。
フランスやドイツでは、裸体姿は曲線美が大変に美しいと讃美していると言う。之を絵で見るより実物で観るは更に美しいのであろう。それ故に、裸体女は増加して行く。これに戯れる男も増加する。その結果、自然に不品行になり、遂に堕落して行く。
美しい衣を着た人間よりも、裸体の人間が美しく観えるかも知れない。しかし、そうした事を多くの人々をして堕落せしむる危険物なれば、之を一般的に観せるは間違っている。

九月九日 日 晴
朝、黒田牧師の礼拝説教があり、夜は自分が述べた。
黒田師は、礼拝の態度と題して、自分は、神の愛に就いて、それぞれ語った。
神は人を愛する為に、最大努力を尽くし給うた。
吾一人を救うにも、太平洋に陸地創るよりも、空に太陽を今一つ増すよりも、より以上の努力を以って、我に臨み給う。
彼は実に、独子給う程に吾等を愛し給う。
神戸消費組合に於いては、馬可伝八章の説明をした。

九月十日 月 晴
今日はトルストイの百年祭で、ロシアに於いては大騒ぎをし、彼を祭ると言う。彼は実に、十九世紀の生める最大人物であった。
自分の如きも、トルストイに依って、どんなに真剣に考えさせられたか知れない。彼の故に死まで決しさせられた。
賀川先生は、自分をして小さきトルストイの子よと呼んだ。
小さいにせよ大きいにせよ、我が内に居る事だけは変わりない。
彼が吾が中に住む事は光栄である。

九月十一日 火 曇
二百十日も無事であった。これで日本の農民全部が安心した。
国民全部が喜ぶことである。それだけでは足りない。国民こぞって神に感謝しなければならぬ。

九月十二日 水 雨
林間学校生徒の手になる図画や作文の展覧会に併せて、その母親達を招待し、キリスト教を説き、神を信ず可きを勧めた。
黒田先生は、日曜学校に来る可く、自分は何うしたら幸福になれるのかと題して述べた。

九月十三日 木 晴
日本歴史を読んで面白く思う。自分の事を学んでいる様である。
井上君がロンドンから書物を十五包み送付して来た。英国に在住して勉強出来ないから、書物に依ってゆっくり学ぶ考えであろう。
細田のお母さん、熱病との便りがあり、ユキ子と三郎君とは心配している。
まだ天国に逝かれる等毛頭考えられない。
父が久し振りで見舞いに来て、あんまを取って帰られた。済まない事である。

九月十四日 金 晴
野田君から厳粛なる書面を貰った。
トルストイ百年祭に当たって、彼は一日の仕事を終わって後に、先ずトルストイに関する所感を書き、後祈って床に就いたと書いてある。
彼は真面目なる青年だ。何者かになるの可能性が充分ある。

九月十五日 土 晴
日本の国民に、神を信ずるの大思想の起こらん事を願い、また考えた。
神を信じ、神に仕えるの道を知らざる国民には、何の善き事も出来ざるを思う。

九月十六日 日 晴
朝、黒田牧師の詩の二十三編に就いての解説があった。
夜は、賀川先生のイエスの奇跡に関しての説教があった。
先生曰く、イエスは多くの奇跡を行なったが、その中富める者に対しての奇跡は唯の二回のみであった。その他は全部、貧乏人の為であった。
貧乏人が病気して、殊に癩病や中風の如き人達は、奇跡を信ずるより福音はなかったと。
実にその通りである。かかる人達が、イエスに奇跡を願う事も、それを信ずる事も当然であろう。
愛ちゃんが、本月の末頃には来神したいと通知して来た。

九月十七日 月 晴
光本君(仮名)の救済問題で色々と質問を受け、一晩の読書を棒に振った。
人を善くするの相談の為には、どんな犠牲でも払わなくてはならぬ。
善志は、昨日東京に向かって出発すると言っていたが、何うしたかしらん。
中野音松の家内が昨日永眠した。
藤原芳夫(仮名)の郷里から、実子の品吉の住所は不明だと回答して来た。藤原(仮名)も不憫なものであるが自業自得だ。今日かくある可き原因を、彼は既に作っていたからである。

九月十八日 火 晴一時曇
残暑、夏と何等変わりがない。
生田祭礼には、セルの衣を着る時であるに、ユタカ一枚で未だ暑い。
六大都市の日傭労働者の賃金を調べて、何れも余りに低過ぎるに驚いた。
彼等の生活を高め、彼等の統制を計らなければ、日本は彼等の存在故に文化しない。

九月十九日 水 晴一時曇
堀井君が北条の町から帰って来た。
兄弟は将来何を為す可きかに就いて、真面目に考え祈っている。
彼の為に善き仕事が与えられ、意義ある生涯を全うすることの出来る様に、彼の為に祈る。
松本君が健康を回復しつつあり、今では熱は去り、終日談話するも疲労せざる程度までに元気になったとは、兄の為に感謝に堪えない。
兄の為に、イエス団の祈祷会で誰かが祈らなかった事は、一度もなかったであろう。

九月二十日 木 晴一時曇
堀井君の来訪があり、二時間ばかり語り合った。
信仰ある人間と語る事は一言も愉快であり、数時間も楽しくある。
日本の神代記を読んで、日本の国が余程よく解った気がする。

九月二十一日 金 晴一時雨
少しも涼しくならない。却って暑い。何時涼しくなるとも予測が出来ない。
住宅問題を考えて見た。都会生活の一番の重荷は、家賃の負担にある。ブル階級は兎も角、吾々無産者に取っては、借家賃の低下の工夫をしなければならぬ。

九月二十二日 土 晴
平川君から、電報で二十三日立つと報知して来た。九州に居っても適当なる職業が見つからなかったのであろう。
失業の機会は益々多くなり、就業の機会は次第に減じて行く傾向がある。
職業の定まるか否かは、実に人生最大の問題である。

九月二十三日 日 晴
朝、黒田先生より活けるキリストとの題で説教あり、夜は、賀川先生よりペテロ伝の教訓としての説教があった。
何と言っても、賀川先生は善い説教をする。
ペテロは七回も大きな失敗をしたが、然し失敗毎に賢くなって、終いには大きな説教者となったと。
我等も又彼に学ばなければならぬ。主キリストは失敗したペテロを愛し給うた。

九月二十四日 月 
藤原倦川職業紹介所長は辞職した。中央所長に対する不満からである。
荒瀬去り藤原又去る。惜しい事であるが、中央所長に足らざるものがある。善く働き得る人物を失うのは、彼の責任である。
両人とも神戸が嫌で去ったのではない。中央所長と意見に合わざる点があり、態度に於いて全然一致しないのである。
迷信深き人と二時間も語り合ったが、物事の解らない人と来ては、全く仕方のないものである。

九月二十五日 火 雨
急に冷えて来た。昨日迄の暑さはすっかり忘れて、シャツ一枚では寒くて仕事が出来なくなった。矢張り時である。時は争われぬものである。
神戸消費組合の守屋主事は辞職した。あの位置の座するの人は恐らくないであろう。組合長が存在する限り困難な事である。然し、現組合長をして動かすことは不可能である。
若し福井組合長が去る時は、林彦一氏が再び帰るの運びに至るかも知れない。同氏を除いては、何人も円満には治まるまい。
中川君が九州から上がって来た。電気局の仕事が甘く行けば善いが、彼の為にも祈る。

九月二十六日 水 晴曇
昨日は一層よく冷える。もう涼しさを通り超えた。真当の秋の候になる。秋の自然に接したいものである。
馬太伝十三章に関する所感を述べて祈った。
堀井君が学校の休暇中出席しなかったが、今日初めて参会した。
垂水から泉なる人が、基督教の集会を開いているから説教をしてくれと、依頼に来訪された。自分には何の名論もないことを告げたが、それでも結構との事故に、十月十四日の日曜日の夜の説教を引き受けた。無牧の教会を作って伝道するとは感心な人である。
水野脩吉氏から二十円送金して来た。

九月二十七日 木 晴
職業指導の講話を聞き、後川西飛行機製作所工場を視察した。余り有益とも思わなかった。
もっと感心したのは、楠小学校を視て、自分が通学した時代と比較して著しき相違のある事に驚いた。実に進歩したものである。
唯、疑問を抱いたのは、女生徒の服装の野蛮化しているが如く見え、又思える点であった。体育、運動のためには申し分のないことであろう。然し何う考えて感心しない。

九月二十八日 金 晴
今日も引き続き講習会に出席し、心理学の立場から論じた職業指導に関する講話を聞き、午後は生糸検査所と税関とを視察した。
其の中、検査所の設備なり生糸の検査方法を観て実に驚いた。
一年に七億円の輸出をする国産品であるにしても、これ程までに面倒な手数をかける手間を以って、何か他に為す可き善き大切な事業のあるものをと、つくづく感じた。
少し綺麗な着物を始末すれば、こんな手間の要らぬものをと思う。

九月二十九日 土 曇小雨
急に冷えて寒い程である。今晩の月見は、曇天で何も見えなかった。
伝票整理でよく働いた。
秩父宮殿下ご成婚も、芽出度く式を済ませ給い、秋のお祝いの一つが済んだ。
山口氏の就業の件で相談を受けた。失業して一年半になるに、未だ就業出来ない。世は依然として不景気である。

九月三十日 日 晴
朝の礼拝に、信仰の充実を、夕べに、我の改造を述べて、二度とも自分が説教した。何だか思う様に話し難くあった。



 一度しかお会いすることのなかった武内勝氏であるが、お出会いしてすぐ武内氏は忽然とそのご生涯を閉じられた。初仕事がそのご葬儀であったこともあるが、「武内勝」というお方には、何か特別のおもいが残り、奥様やご子息に「書き残されている筈の日記を、機会があれば一度ぜひ読ませて頂けないか」とお伝えしてきた。
 お別れしてから長い歳月を経て、不思議な事に本年春、43年ぶりにしてこれの閲読を許された。しかも、ご子息・武内祐一氏のお許しを得て、このような場所で公開させてもらい、心ある方々とご一緒に、こうして閲読できることは、本当に有難いことである。私も「一日一歩」この作業を続けていきたい。(2009年9月11日記す。鳥飼慶陽)



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