記念事業概要 スケジュール ニュースレター 神戸プロジェクト 実行委員会 新聞切り抜き 寄付のお願い
賀川豊彦とは 賀川の仲間たち 賀川の時代史 賀川の著作 関連ブログ 問い合わせ
懸賞論文
 お宝発見「武内勝日記A」(1)
お宝発見

賀川先生の献身の証し
貧民窟主題の小説書きたい
一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 昭和2年8月1日〜昭和4年6月5日
 この「武内勝日記」は、使用済みのA4版帳簿(「負傷者疾病共済原簿」「毎月の入金簿」「疾病負傷統計」など貴重な資料)を活用したもので、昭和二年八月から書き始め、昭和四年六月五日まで欠かさず記されている。
 何故武内はこの日記をこの時に書き始めたのか分からない。これまでの日記もあるはずであるが、戦前のものはこれだけが残され、これが武内の最も古い日記である。
 ところで、武内が歩みを共にした賀川の「露の生命」「溢恩記」などの「日記」は1991年に「賀川豊彦初期史料集」(1905年〜1914年)として緑陰書房から出版され、ハルの「日記」なども最近「賀川ハル資料集」として同じ出版社より活字化された。
 武内の場合、賀川夫妻のような表現の仕方は得意ではなかったが、武内の書き残したものの中で一番纏まったものは、今回紹介しようとしている2冊の「日記」である。
1冊は、昭和2年から4年のもので「日記」とも何とも書かれていないが、便宜上ここでは「武内勝日記A」としておく。そしてもう1冊は、賀川没年の翌年となる昭和36年度一年分の「日誌」である。これも便宜上「武内勝日記B」としておく。
 武内が戦後の「手帳」に書き残している断片的なメモ類と「武内勝日記AB」とは、「神戸イエス団」の歴史的経過をたどる上での貴重な基礎資料となるものである。その他の「武内勝所蔵関係資料」をあわせて整理しておくことは、新しい賀川記念館(ミュージアム)のスタートに向けた下準備としても有益であろう。
 武内勝のご子息・武内祐一氏からは所蔵資料の全てについて公開することを許諾委任されているが、武内は「日記」までも後に公開されるなど思いも依らぬことであろうし、私は当初「武内勝日記」の所在を関係者に御知らせするに留め、限定した閲読とすべきではないかと考えてきた。
 しかし、賀川豊彦・ハル夫妻の「日記」類が公開されたいま、「武内勝日記」も基本的に同じ扱いをすることが許されるのではないかと考えるようになった。ただし、ここはインターネット上での公開である。作業をすすめながらの判断となるが、時として「仮名」とする必要が生じる場合があるかも知れないが、原文のままを打ち出して進めていく。
 原文は、判読の困難な箇所も少なくないが、極力読み解いてみたい。間違いも生じるので、次の機会に補正を加えていく事にする。その点、刊行物ではないこの手法の便利さがある。
ノートの空白を利用したこの日記は、ペンで書かれていて、縦書きで句読点もなく改行もほとんどない。しかし、少しでも読みやすくする為に、ここでは横書きにして、適宜句読点を入れ、必要に応じて改行をする。
 何分分量が多くなるので、先ずは三ヶ月ごとに纏めて公開してみたい。
適切なコメントなど加えれば面白くなるが、ともかく今回は「武内勝日記」を、私自身が一読することに主眼をおいて作業に取り掛かりたい。
このサイトご覧頂いた方で、掲載の仕方などでご意見などお聞かせていただければ有難い。(torigai@ruby.plala.or.jp)


第一回 昭和弐年八月〜九月

八月一日 晴 月
馬鹿者の多きことを考えて、自らがより善くなる為めに、一層努力せなければならぬとつくづく思わされた。自分の様な先天的に人に勝れ得ざる者が、人より賢くなることは困難中の困難だが、人が次第に馬鹿になって行くから止むを得ない。
今日も川崎の失業者の為めに、求人開拓に廻った。然し何んのえものもなかった。

八月二日 晴 火
井上増吉氏から無事上陸したことの通知があった。
川崎造船所に於いては、更に社員五百名を解雇するとのことである。
十年経てば一昔とやら、全く其感がある。大正六、七年頃に在っては、誰某は裸一貫から成金になったとよく噂を聞かされた。労働者ですら、金時計金指輪を持っていた。金銭の洪水で誰も彼も浮いていた。
然し今日では、鈴木が閉鎖し、十五、近江、村井等の銀行は休業したまま、何時開業するか見込みが立たないらしい。川崎は三千の失業者を出し、オヨネさんも松方さんも、立派なお家を債権者に渡して、小さな家に移った。神戸の巨頭も倒れて終った。

八月三日 晴 水
祈祷会 堀井君のガラテヤ書の講義があり、自分の意見を述べて祈りに入った。イエス団が、世界に誇り得る精神を以って活動すべきを考え、また然かあらしめ給はんことを祈った。

八月四日 晴 木
井本氏(仮名)の怠けに就いて又問題が起こった。真面目に働きさえすれば善いものを困った男である。彼にも又辞職を勧告せなければならぬことになった。

八月五日 金 晴
ゼネバの軍縮会議は決裂して終った。矢張り頼りない会議である。権威ある会議の開かるるのは何時の頃であるやら、見当も想像もつかない。
川崎の失業者の其の後の報道は嘘ばかりである。

八月六日 土 晴
万有科学体系第五巻を読了した。今年程知識を吸収したことはない。これは体系の読書の賜物である。

八月七日 日 晴
礼拝後、西宮の関西イエスの友会の修養会に出席した。
夜、賀川先生の説教があった。朝三時に目を覚まし、夜十一時迄聞くばかり。耳のみの仕事で随分疲労した。然し、時に神の子供は相集いて研究し、祈ることは、各自に取って有益なることである。

八月八日 月 晴
毎日読んでいるに係わらず、読書欲が湧いて湧いて壓へることが出来ない。科学もよし、歴史もよし、哲学もよし、心理学もよし、宗教もよし、読んで読んで、読み抜きたい。

八月九日 火 晴
吾国には失業者は年々増加し、人口は国に溢れ、経済は行き詰まり、結局は何うなることかと、百年後のことを考えて、誠に憂慮に堪えない。
日本をしてあやまたざらしめるために、幾分なりと尽くすところあり度いものである。

八月十日 水 曇 夜 雨
祈祷会の席で、ガラテヤ三章を回読して、信仰の内容を説明した。
毎年行事の、子供のため明石往きに就いて協議した。本年は金がないので、中止しなければならないかも知れないと思っていたが、和田氏の金弐拾円寄付の申し込みがあり、一同非常なる励ましを受けた。
氏は直し屋を職業としているが、現在に於いて直し屋程軽蔑されている階級はない。然し、かかる外面に於いては最もいやしむ可き人と考えられている氏と同じ心を以って、主に奉仕の出来ることを感謝する。
岸部氏や渡辺氏の如く、病身にも係わらず、家の貧しいために、無理から工場に出勤し、休憩時間を利用し、洋服を売り、その利益を献金する様な兄弟達と、信仰を同じうし、又同労の出来る光栄を感謝する。

八月十一日 木 晴
細田のお母さんが、今日限りで互恵会を暇取って近江の義男兄の元に住むことになった。随分長い間御苦労様であった。此の上、従来の様な心配をかけてはならない。細田の為めに、神に御礼を述べねばならない。
堀井君の訪問があった。

八月十二日 金 晴
冬の働きに比較すると三分の一仕事もしていない。一年の間、僅かに八月一杯が少し暇なのであろう。又九月から多忙になる。一年中の骨休めの八月と思えば有難くもなる。然しこれでも、普通の人の倍は働いていると思う。

八月十四日 日 晴
礼拝説教に献身の祝福に就いて語り、消費組合に於いて道徳の法則に就いて述べた。
子供の明石行きは、小人八十二名、大人二十名、計百二名であった。子供は終生忘れ得ない印象を受けるであろう。金のない事を心配していたが、余る程与えられた。有難いことである。

八月十五日 月 晴
知識欲が燃えておさえきれない。
全国中等学校野球優勝試合で、甲子園グランドは大変な人気である。遊ぶことにかけては誠に熱心なものである。この競技は、日本に於いては当分廃らないであろう。

八月十六日 火 晴
三越呉服店で開催中のブラジル事情展を観に行った。
日本はブラジル移民に成功しなければならぬ。吾国の如く、僅かに六百万町歩の耕地に三十万の農夫が居るのでは、行き詰まりは免れまい。
本多君と同伴で、四十銭の寿司と二十銭のクリームを、同君の御馳走になった。

八月十七日 水 晴
堀井君のガラテヤ書説明があり、祈祷会終わって西瓜会で解散した。
明けても暮れても変わらざる吾が願いは、同胞の救はれんことであり、此の世の聖国とせられんことである。

八月十八日 木 晴
神戸市の屋外労働者、殊に日雇労働者の賃金が一般に低下していることが知れた。社会政策位では追い付かなくなる。

八月十九日 金 晴
平凡なる一日であった。
広陵中学が松本商業に四対三で勝ったと言うので、西瓜の御馳走になった。岸部兄が賀川服の件で訪問があった。

八月廿日 土 一時雨
ホーマーのイリアッドを読んだ。彼も人生に目的と法則とのあることを示している。それ故に此の書が貴く、今日迄捨てられないのであろう。
全国中等学校第十三回優勝戦で高松商業が大勝した。阪神地方でこれ程人気を集めるものは他にない。実に面白い現象である。

八月二十一日 日 晴
礼拝説教に、キリストの我が来たりしは義人を招かん為に非ず、罪ある者招かんが為めであるとの、悔い改めに関して述べた。
夜は、ヤコブ書三章の生ける信仰と死せる信仰とに就いて説明した。
ユキ子が牧野の転宅のお手伝いに往った。

八月二十二日 月 晴
伝票整理と読書とが今日の仕事であった。ユキ子が不在で、お隣の親切に依り、湯と夕食の御馳走になった。

八月二十三日 火 晴
ダンテの下巻を読んだが解り難い書であった。更に改めて読むことにしよう。

八月二十四日 水 晴
祈祷会に出席し、堀井兄のガラテヤ書講述があった。
河田兄が健康回復して又イエス団に返って来た。
松本兄が未だ病床に在って、歩行さえ不自由であると聞いて気の毒で堪えぬ。

八月二十五日 木 晴
駆逐艦蕨が衝突沈没して百何十名かの生命を犠牲にした。国家の為とは只実に気の毒なことである。失業所の騒ぎではない。演習に於いてさえこの通り、戦争に在っては尚更なりである。
ああ戦いのことを学ばざるの時は遠きことにや。

八月二十六日 金 晴
戦争と平和を読了。
デカメロン下巻を読んで詰まらないことだけがよく分かった。かかる書物が著さるる時代の、如何に堕落していたかと言うことと、其の結果は滅亡あるのみとのことがはっきり解った。知れ切った当然なことが、一層はっきり知れただけで、朝早くから起きて、祈祷を献げて読むにはあまり勿体なすぐる。
河田氏解雇の通知があった。又心配が一つ増えた。

八月二十七日 土 晴
偉いと言う自信は、書物を読んだのみでは与えられない。書物を通して人が偉くなると言うのは、負傷に対する薬程の効果しかないことをつくづく感ずる。
今日は忙しくよく働いた。河田、佐藤の為に、彼らを失業より救うために祈ろう。

八月二十八日 日 晴
礼拝説教 日本の救いに就いて絶叫した。終日家に在って祈る。
教会に出席した。日中二百頁読書した。

八月二十九日 月 晴
デカメロン下巻を読了した。別に得ることない無益な書であることが解った。詰まらないということを知る為に、毎朝午前五時前から起床し、夜は十時迄熱心になって読むことは、実に大きな損失である。

八月三十日 火 晴
普通選挙の問題で、県市は大変な活動である。
我々の同志の行政長蔵氏も候補に立つことに決定した。殊に彼を応援せんとする。共鳴者は一人金壱円也の運動資金を集めている。
理想選挙で愉快であるが、日本全国の立場から批評すると、普選になっても立候補者に余り変化がない以上、多くの人達の期待する程のものではあるまい。
労働保険組合規約変更に就いて、平和楼に於いて理事会が開催され、自分も出席した。

八月三十一日 水 晴
祈祷会に出席して、偉い人に就いて所感を述べた。パウロを中心としてであった。
源氏物語の上巻を読了した。今より九百年前の、王を中心として其の周囲の貴族方の人生は、一言にして恋愛であったと言える。九百年後の今日も余り変わるところがないように思われる。

九月一日 木 晴
急に寒い位冷える。これも不順である。長続きはすまいが、全身に緊張を覚える。
関東震災四周年である。あの時の心持で大いに真面目になれと道徳家が説く。守る人の少ないのは誠に遺憾である。
三郎君が長年振りで吾家の一人となった。君が此の家に在って、神とキリストを知る事の出来る様に。

九月二日 金 晴
二百十日も無事であった。これで日本の農家は大いに意を強くしているであろう。農夫の喜びは吾等の喜びである。我等同胞六十万人は、天候に就いて神に感謝せねばならぬ。

九月三日 土 晴
此程冷える気候でもあるまいに、何んだか十月頃の気分が出る程涼しくある。
シェークスピアの物語を読んだ。有名な書だけあって甘く書けていると思い又面白く読んだ。
神戸市に奉職して今日で満七周年である。過ぎて見れば早いが、待てば余り短い年月でもない。七年の間には随分多くの経験をした。然し凡てを感謝している。損も得も喜びも悲しみも、一切合財感謝である。

九月四日 日 晴
罪の赦しに対する自分の思考する所を述べて礼拝説教に代えた。
夜は、賀川先生が支那の話をせられた。支那の未開は今更知れたことでもないが、事情を聞けば聞く程、野蛮の程度がよく知れて驚く。支那の救いは未だ遠い様に思われる。八十人の宣教師も一億五千万円の投資も、支那を救うには余りに微力すぎるであろう。
フランス革命を百頁読んだ。

九月五日 月 晴 
自殺を計画したが矢張り救われたくなったとて、一身上の相談に来た青年がいる。弱き青年の多いのには困る。
山口氏の訪問があったが、彼の問題も依然として解がつかなかったのに閉口する。

九月六日 火 雨
本年の夏になって、今日程多量に降雨のあったのは初めてである。これで神戸も水飢饉の心配は消えるであろう。二百十日の風はなかったが、何んだか馬鹿に冷えすぎて、十月の気候の様である。
雨のためか涼しいためか、コウロギが馬鹿に善く鳴く。彼の鳴き声は、彼が神に対する賛美歌なのであろう。美しい極みであり、幸せなことである。
第二回労働統計調査員打合せ会に出席した。

九月七日 水 曇雨
祈祷会の席で、我が国の移民に関して所感を述べた。
日本人は狭い島国に多数に住んで居て、経済上に行き詰って凡てのものを殺しつつある。成長すべき筈の者も成長せず、唯生存することだけが困難中の困難の状態である。
日本に居て生きられなくば、ブラジルに往って生きよ。日本で延びられなくても、海外に出て延びよ。日本人は、日本に於いて現在以上に発展せずとも、移民して向上せよ。

九月八日 木 晴後雨
七八月は雨量が少ないとて心配したが、九月に入ってからはよく降る様になった。なくてならぬものはやはり与えられる。
昨夜、二十四名の労働者を新潟県に紹介したが、今日は紹介所は稀に静かであった。

九月九日 金 雨後晴
岸部、前田の両氏が、賀川服売捌の打合せの為に来訪された。岸部氏の如きは、実に類のない献身的の青年である。かかる青年を友として与えられしを感謝す。

九月十日 土 晴
急に暑くなった。土曜が又来た。然し九月である。暑いのが当然である。今少し暑くなければ米が充分実らない。そう考えれば、暑さは不平でなく感謝である。
内親王殿下が御生まれ遊された。

九月十一日 日 晴
イエスの理想と題して神の国を述べた。
神戸消費組合で主の祈りに就いて説明した。
夜は新しく生まれることを話した。
直し屋さんの和田氏が、毎月三円の献金せらるることを約束せられた。意外に思った。こんな友を持つ嬉しさを神に感謝する。
ボバリー夫人を読んで、詰まらない書物であることだけが解った。文学の貴い処など自分には少しも解らなかった。

九月十二日 月 晴
堀井君の訪問あり。松本君の近況を聞かされて、君の為に大いに同情した。イエス団の青年達の為に、更に善き奉仕をせねばならぬことを痛切に感ずる。

九月十三日 火 晴曇混天
春のめざめを読んだ。文学物は例に依って例の如く、得る処なき書である。或いは自分に吸収力が無いためかも知れない。何れにしても、得ることなき事に於いては、何等の変わるところがない。
昭和三年度の予算の打合せ会が談話室で開かれた。
熊本県に大津波が襲来して、壱千百余名の死傷者を出したと号外は報へている。

九月十四日 水 曇
祈祷会で、岸部兄が工場内で信仰の勝利を証した。自分の工場の係技師が転任になるので、その送別会を開く為に、一人の会費が三円位で酒を用いると言う条件であったので、兄はそれに反対して、先輩の意志に反省せしめ、遂に兄が勝利を得たと言うのであった。
彼は勇敢なる痛快な青年である。自分は自分の思う通りにならずとも、神の思召しは必ず成ると、現在ならずとも将来何時かは必ず成る、と述べた。

九月十五日 木 曇
失業者の訪問は、次ぎから次へつきない。
今日はマヤス先生からも紹介があった。失業ほど辛い経験は少ないであろう。お気の毒に堪えないが、何ともすることが出来ない。日本の失業問題の解決は、矢張り移民に待つより他に方法がなかろう。
女の一生を読了した。

九月十六日 金 曇
西部の欠員が補充されることになった。
友人の失業を思うて、毎日注意しているが、紹介先がなくて困る。
暴風あり津波あり洪水あっても、人間は良心に目醒めない。不景気で経済的に行き詰れば、しほれて終い、失業すれば悲観して、自殺しなければ世を呪うのみで、良心に省みることを知らぬ。
失業より貧乏より天災より国民を救うの途あることも知らず、防止の途も講ぜず、成り行きに任せて泣いてばかりいる馬鹿者どもである。
ああ天の父より正義の旋風を送り、罪悪を一掃する聖霊の津波を与え、此の世をして聖化せしめ給え。

九月十七日 土 曇
県会議員選挙で日本全国を通じて大騒ぎである。
日本に於いては最初の普選であるだけに、うろたえ方も容易でないのも無理であるまい。自分にも生まれて初めて選挙権を与えられたのである。普選になった事に依って、日本の政治が少しでも正しくなり、公平になり、貧しき人達のことが省みられ、政治道徳が高くなり、日本国民の幸福が計られる様にならなければならない。

九月十八日 日 雨後晴
礼拝説教に苦難の賜物と題して述べた。人は苦難に会う事に依って悟りも得進歩もする。植物に於ける太陽の如く、我々に苦難はなくてはならぬものである。
夜、主の名を呼ぶ者は救ると話した。集会出席者は二十五名程であった。

九月十九日 月 曇少し雨
普通選挙、依然として盛んなる運動である。今度の選挙の結果が何うなることやら、実によき試練である。特に無産者代表が何程当選するかが見物である。労働者は非常なる期待をもっている。

九月二十日 火 曇
昭和弐年度下半期に於ける大阪逓信局人夫供給の件で、打合せの為大阪へ出張した。
経理課長ともあろうものが、失業問題について余り無頓着であるのに驚いた。矢張り失業問題は、失業の経験のある人でなければ理解がない。富める者が貧しき人達のために省みる事の出来ないのも同一の理由に依るものであろう。

九月二十一日 水 晴
久しぶりの好晴で、如何にも秋の気分が味わわされた。
今日は仁川に往った。延べ弐万人の仕事を探してであった。
稲の穂は皆咲き揃った。今十四五日も経てば新米として我々を養って呉れるのである。有難いことである。蒔かず刈らず何等の労する事もなかったのに、思わず感謝の念に溢れた。
ススキ、ロハギ、オミナエシ等道端の草花が嬉しい気分にして呉れた。
祈祷会に出席して、聖霊について述べた。

九月二十二日 木 曇
川崎造船所が三千五百人を解雇したので、紹介所は之がために、採用した臨時雇十二人の御用済みに際しての送別会を開いた。中央講堂で夕食を共にした。

九月二十三日 金 晴
朝日館の招待に依って運動奨励の活動写真を観た。人体の健康の必要とその訓練の必要とを今更の如くに教えられた。殊に学生、少年達の為に最も有益なる写真であると思った。

九月二十四日 土 晴
東部労働紹介所の職員一同が、六甲越の有馬行きの遠足をした。実に愉快であった。何時山に登っても、且て悔いた事がない。
六甲の禿山もススキによって綺麗に飾られていて、まるで花の山の様であった。自分の接する自然にして、六甲程私を楽しませるものはない。

九月二十五日 日 曇
朝、汝等の正義は学者パリサイの人達に必ず勝れなければ天国に入れない、との主の教えに就いて述べた。
霊にも肉にもその通りである。精神病者が役に立たないと同様に肉の病人も何の働きも出来ない。少し動いたからとて熱が出たり、寒いと言っては風邪を引き、暑いと言っては痩せ、少しばかりものを言っても直ぐ疲労する。こんなことではなんの仕事も出来ない。
キリストは一度も病気したことがない。いっぺんの熱の出たことも風邪引きも、聖書には記事がない。
夜、賀川先生の説教があった。パウロの改心美談と題してであった。
集会者は三十五人もあった。イエス団の集会にしてはこれで多数である。
阪本勝を選挙して置いた。

九月二十六日 月 曇
昨今の選挙噂は何処にも花が咲いている。候補者は心配でならないであろう。誰が出て誰が落ちるか知れないが、落ちた者は馬鹿を見たと泌みじみ感ずることであろうが、候補者に立つ者は少しチョウシ者でないと出来ない芸出の様にも思われる。

九月二十七日 火 雨
神戸市より立候補した阪本氏は、最高点で当選した。
労働者も喜んで居るであろう。時代も変わりつつある。全国が神戸の様には甘く行かないであろう。然し、県会に貧乏人の代表者を出すことの出来るのは、貧しき者にとっては幸福なことでなければならない。

九月二十八日 水 雨
祈祷会に於いて、エスの十字架の救いを述べた。集まれる者は小数で、祈る者も少なかった。何となく物足りなく感じた。でも、日本の救いの為に時を用い、又神に祈ることの出来るのは、自分にとっても国にとっても感謝でなければならぬ。

九月二十九日 木 雨
長船から尚志が死亡したと通知して来た。彼は可哀想な者であった。先天的に馬鹿者で、旅から旅を続けて遂に死亡して終った。彼が死んで困る者は天下に誰一人もないが、死せる彼自身が可哀想でならない。

九月三十日 金 晴
久しぶりで晴れて如何にも秋らしい感じがする。
岸部兄が結婚するらしい。彼の兄弟のために祈らなくてはならぬ。兄をしてあやまらしめてはならぬ。兄が一層恵まれたる生活をする為に。
大阪の四貫島セツルメントの献堂式の祝辞をせよと命ぜられているので、今日は特にセツルメントの事に就いて考えた。此の仕事は、全く奉仕の働きであって、女中奉公に似ている。


 以上「第一回」は二ヶ月分であるが、結構この作業は時を要するものである。読み間違いも気になるが、直に日記をこうして閲読の出来ることの幸いを覚えさせたれた。
 ただ今、「賀川豊彦献身100年記念事業」のひとつとして武内勝口述・村山盛嗣編「賀川豊彦とそのボランティア」(1973年刊)の「新版」準備の最終段階であるが、この書物は1956年に10回にわたって口述されたものである。
 ところがこの数年後、求めに応じて再度10回分の口述が試みられており、何とその録音テープが最近発見され、先日(2009年8月28日)の準備作業の会議において聴くことができたのである。一同、武内の澄んだ声、ゆっくりとした確かな語り口に驚いた。
 「新版」は本年11月末、神戸新聞総合出版センターから出るが、この度発見された口述テープのお宝も、じっくりとお聴きしてみたい。楽しみな事である。
 ともあれ、次回(第二回:「昭和弐年十月〜十二月」まで三か月分)の準備に取り掛かりたい。
                  (2009年9月1日記す。鳥飼慶陽)



賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会
東京プロジェクト 事務局  〒156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19 賀川豊彦記念 松沢資料館内
神戸プロジェクト 事務局  〒651-0022 神戸市中央区元町通5-1-6 神戸共栄火災ビル7F