記念事業概要 スケジュール ニュースレター 神戸プロジェクト 実行委員会 新聞切り抜き 寄付のお願い
賀川豊彦とは 賀川の仲間たち 賀川の時代史 賀川の著作 関連ブログ 問い合わせ
懸賞論文
 「小さき人生の完成者」武内美邦ちゃん
お宝発見

賀川先生の献身の証し
貧民窟主題の小説書きたい
一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 前回(43回)、武内所蔵資料に残されていた賀川の個人雑誌「雲の柱」の中にあった中村竹次郎の「武内勝先生を語る」を紹介した。ここではもうひとつ「雲の柱」に掲載されていた大事な書簡を取り出しておきたい。
 それは、武内勝・雪夫妻のご長男「美邦」さんが、昭和14年4月17日に満10歳と6ヶ月という短い生涯を終えたとき、父親の武内氏が、その哀惜の思いを敬愛する「賀川春子様」宛てに書簡を認め、報告している。4月22日付けの手紙であるが、それが「雲の柱」第18巻第6号(昭和14年6月号)の46〜47頁)に収められていた。
 まだこの場では紹介できていないが、武内勝氏は、昭和2年8月1日から昭和4年6月5日までの2年間足らずの重要な「日記」を書き残している。あの激動の時にあって、時代の動きをはじめ仕事場のこと、イエス団のこと、そしてご家族のことなど、毎日200字程度の短い日記を記録され、それが残されている。
丁度そこに、ご長男「美邦ちゃん」の誕生の記録がある。その日の日記には、

「昭和3年11月7日朝4時30分男児誕生」「この児が将来神様の御用を務むる者となる様に、今より神の御手に委ね、神の子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。天の父の御祝福豊かならん事を祈った」

とあって、武内の喜びのことばが踊っている。その日以後の日記の中身は、微笑ましいほどに「美邦ちゃん」をめぐる記録で多くを占められることになる。
 以来「美邦ちゃん」は、ご家族と共に「満10歳と6ヶ月の人生」を生きた。残されている「アルバム」の中の両親と共に写されているものを、ここに添付させていただく。
 父勝氏にとって、ここに書き留めた「賀川春子様」宛ての書簡は、特別のものであるに違いない。



 小さき人生の完成者  武内 勝

 賀川春子様

 (前略)岡山の叔母は去年発病以来、天国に入ることを慶び、生前より私の霊魂は既に天国にあり、唯肉体のみこの世に残っていると申しまして、或る日岡山の佐藤牧師が見舞われて帰られる時、今日はこれでお別れいたし、次回は天国でお眼にかかるかも知れませんと挨拶せられしに対し、叔母は直ちに、私には別れるということはない、既に永遠の世界に移されているので、別れるとか離れるとかの区別がないと答えたそうで、実に喜び勇んで昇天致しました。村の人達も、教会員も、家の者も叔母の勝利の生涯を感謝いたした次第で御座います。

 また、美邦は去る九日叔母の告別式のため家族と共に参りましたところ、その晩より急性肺炎にて四十度の発熱となり、直ちに医師に就いて手当てをいたしましたが、経過思わしからず、十三日岡山の大学病院に入院し、病院では至れり尽くせりの手当てを施し、看病の者も最善を尽くして下さったのですが、竟にその効なく十七日午前十時三十分永眠致しました。

 美邦は病気中随分苦しみました。肺炎の痛みに呼吸の困難に、一日数十本の注射に耐えることは容易でなかったと想像されました。然し私は、余にも美しい心を持って天国へ参りましたことを知り、大きな慰めを感じて居ります。

 十五日朝、美邦は父ちゃん僕はもう死ぬ様な気がすると申し、彼はその後で祈るのでした。第一は自分の病気の治るように、第二は世の中の貧しい人達の救われるために、第三は傷痍軍人の護られることを、第四は病院へ入院している患者の健康恢復について、第五は病者のために働く看護婦の恵まれるように。そして私に対しては父ちゃん色々お世話になってありがとう、今までのわがままや、悪い事をしたことを勘弁して頂戴と、両親に向ってこの世の最後の挨拶を述べ、久仁子はどこに居りますか、千恵子はどうしていますかとふたりの妹の安否を問いました。

 十六日は、父ちゃん僕はもうこの世の人でないと申しました。暫らくして、父ちゃん聖書を読んで頂戴と要求しましたので、マタイ伝十八章の初めを読みました。すると僕は祈ると申しまして、自分がわがままであるから病気したと考えてそのことや、従来の悪かった行為について神様に懺悔いたしました。多分天国へ入る心の準備をしたのでありましょう。

 十七日の朝は急に様子が変わりまして、何か口を動かしたかったようでありますが、聞き取れませんでした。その午前十時三十五分遂に人生十年六ヶ月の旅路を終わり天国へ参ったのであります。

 美邦の生前の唯一の楽しみは、毎日曜日の朝、村の子供達を日曜学校へ集めて来ることでありました。朝早く自転車に乗り、余り熱心に勧誘して廻りますので、妻が、美坊勧めるのは結構だが、無理に引っ張ってこなくてもいいと申しますと、母ちゃん無理からでも引っ張って来なければ誰も来ないというのでした。そうした友達の中に、日曜学校も中々いいものだと褒める者があるとそれを無上の喜びとして、母ちゃん誰それはきっと続いて来るよなどと友人を日曜学校へ連れて来るのを、小さき彼の使命としていたようでした。

 美邦は賀川先生の孫であって、雑草の研究が好きで、瓦木付近に百種類ばかりあると申して居りました。指導者の埴生さんが美邦の質問を辞書によって答えたらしいです。

 動物に対してもやさしいので、去年の春一羽の雀の子が家の中へ飛び込んで来ました。それを捕まえて逃がしたのですが、よう飛ばなかったので妻に相談して、水を飲ませることとし、逃がしたものをもう一度捕えるため籠を伏せる拍子に足を折り、小雀は遂に死んでしまいました。それで美邦は雀の墓を造り、昭和十三年五月廿一日と記した墓標を立て、その前に自分が悪かった、どうぞ天国へ行って下さいとお詫びをしているのでした。親雀は屋根の上で、小雀を捜してちゅうちゅうと鳴いている、彼はそれを作文にしましたが、今は私が親雀となりました。

 美邦は朝洗面が終わると、父ちゃんお早うございますと両手を畳について挨拶し、私の外からの帰りには、廊下の板に頭をすりつけて、お帰りなさい、お疲れでしょうと迎えてくれ、時には、私の肩と腰を揉んでくれましたが、そのために特別早起きしてくれたこともありました。本月五日の如き、妻と二人で語り合いました、美坊はどうしてこんなに心得がよいのだろうか、何か変わったことが無ければよいが・・・と。

 私は美坊のために感謝いたして居ります。彼は寿命百年を許されたとしても、他人のために祈ることを知らず、友を神の教へに導くことが出来なければ、私においては苦痛であり不孝であります。人生十年六ヶ月必ずしも短くないと存じます。神を知りその教えを守り、神様を天の父と仰ぎ且つ信頼し、永遠の生命を信じて、天国に入るを得ましたら、彼も幼いなりに小さき人生を完成したものでしょう。天の父が彼に長寿は給わりませんでしたが、神の国を従順に受け入れる心を賜りしを誠に有難く存じて居ります(昭和十四年四月廿二日)。



 武内御夫妻の貴重な「アルバム」が「玉手箱」に大切に残されていて、その中のそれぞれの写真がいつどこで撮られ、ひとりひとりの人物の特定が必要であるが、まずご子息の武内祐一氏にその確認作業をして頂いた。
 引き続いて現在、一麦保育園顧問の梅村貞造先生に、御願いをしているところであるが、梅村先生は、この武内美邦さんとは幼馴染で親しい友達であったそうである。機会をつくって詳しくお話を聞いてみたい。(2009年8月25日記す。鳥飼慶陽)



賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会
東京プロジェクト 事務局  〒156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19 賀川豊彦記念 松沢資料館内
神戸プロジェクト 事務局  〒651-0022 神戸市中央区元町通5-1-6 神戸共栄火災ビル7F