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 大きな焼夷爆弾が私の家の軒先に
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一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 先に何度か、賀川が中国の旅先から武内勝に宛てて送った絵葉書など紹介した。豊彦にとって敗戦の年の旅は、戦後いちども出向く事がなかった中国の「最後の旅」となった。
 昭和20年2月5日に賀川は中国から戻り、東京において3月10日のあの「東京大空襲」で絶大な戦災を受けるなか、「戦時救済委員長」の任を引き受けて戦災者の救援にあたった。東京の空爆は4月13・15日、更に5月26日と立て続けに襲い、多くのいのちを失うのであるが、賀川は4月には厚生省の「健民局事務取扱」を委嘱され、6月に「戦災援護」の参与としても働いていた。
 この戦時下の賀川豊彦とハルの日記や雑誌・著作などでの記録がどれほど残されているのかわからないが、横山春一氏の「賀川豊彦伝」(昭和34年、警醒社版)には、このころの事の次のような短い記述がある。それによれば、

「賀川が多年物心の両面から力をそそいできた神戸イエス団、大阪の四貫島セツルメント、生野聖浄会館、東京の本所基督教産業青年会、江東消費組合は、建物がみんな灰塵に帰し、人も死んだ。
日本の70余の都会はやけ、二百数十万個の家屋と一千万の同胞が、住宅と衣類と仕事場を失ってしまった。戦災孤児は巷にあふれた。賀川は、教団をうごかして、戦時生活活動委員会を組織し、戦災孤児、戦時伝染病の救護に乗り出し、食糧増産、純潔運動、親切運動などの指導にあたった。」(408頁)

 関係年表でも、わずかに「8月 賀川関係の社会事業施設の殆どを、空襲爆撃で焼失」と書かれているが、「建物がみんな灰塵に帰し、人も死んだ」とされる被災状況のいちいちについては、それぞれの場所で、写真其の他、忘れることの出来ない記録が残されている筈である。



 今回取り上げる葉書は、神戸・西宮・大阪方面の爆撃で、神戸在住(?)の芝八重子氏の消息と吉田・金田両氏の施設の被害を案じ、賀川の働く東京の実情を報告する内容である。
 本文に日付はなく、消印を見ても20年8月とも読めなくはないが判然としない。
   差出 東京都世田谷区上北澤2丁目603
   宛先 兵庫県西宮市北口高木町南芝781 一麦寮 武内勝様

 戦局苛烈極むる際益々御奮闘の断うれしく存じ上
ます。此度の爆撃で八重子が家を失ったでは無いないかと心配いたし
て居ります。旅行困難につき何卒よろしく御援護御願い申上げます
また大阪北港、今津、吉田源治郎氏、金田氏の施設は如何になりま
したか? 心配致して居ります。私は一生懸命努力いたして居り
ます。五十キロの大きな焼夷爆弾が、私の家の軒先に落ち
ましたが、幸いに消し止め無事なことを得ました。然し、大崎治郎
氏、小川清澄氏、その他教会員も多く家を焼失しました。私の
家及び幼稚園には十数家族が這入っています。千代子の医学校
は長野県白田に疎開しますので、千代子はその方に参ります。
保険につき色々心配下され感謝申し上ます。東京では濠生活がめっき
り植えました。御努力を祈りつつ     カガワトヨヒコ


 今年(2009年)3月から神戸文学館において「空襲と文学」展が開催された。現在も8月末までPartUとして好評開催中である。添付の写真は、昭和20年3月17日の神戸空襲で、元居留地と税関方面が延焼しているものである。神戸でもこの年1月から128回もの空襲を受け、葺合新川を含めて焼け野原となったが、もうひとつの活動拠点である長田の番町は、焼夷弾の火を住民がひとつひとつ消し止め焼失を免れた。(2009年8月20日記す。鳥飼慶陽)



賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会
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