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 豊彦とハルの結婚式が挙げられた教会の場所
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  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 「武内勝史料」の中に「財団法人イエス団友愛救済所」の用箋に記された武内勝による無題の覚書が残されている。執筆年代は不明であるが、この用箋からみて初期史料と見受けられるが、その中に次のメモがある。 
結婚 大正二年五月二十七日
先生の結婚披露
老人や不具者を教会一杯招待してすしの御馳走をし先生は一同に私はお嫁さんを雇(この1字にペケ印)貰ったこれは皆様に奉仕する為めである家に病人が出来或いは特別な用事のある時は何時でも相談しにいらっしゃいと挨拶された
 豊彦とハル夫妻の結婚披露のことは、広く知れ渡っていることである。
 ふたりが結婚式を挙げたのも、武内の記すとおり大正2年5月27日であり、挙式の時間は午後8時、神戸市下山手通7丁目にあった神戸日本基督教会において、マヤス博士が司会、司式は青木澄十郎牧師であったことも常識のうちであった。昭和9年に鑓田研一が纏めた「伝記小説 賀川豊彦」(不二屋書房)をはじめ、昭和34年版の「賀川豊彦伝」(警醒社)においても同様であった。



 ところが過日、日本基督教団主恩教会(相浦和生牧師)から「主恩教会90年の歩み 2009」の寄贈を受け、その巻頭に「神戸日本基督教会(山本通5丁目)(1908年)」と説明のある写真が掲げられているのが目に留まった。写真をよく見れば看板にも「山本通5丁目」が読み取れるのである。

 同誌53頁以下の「教会年表」には、1908年(明治41年)5月、「神戸日本基督教会」は「下山手通8丁目電停近くの会堂から、生田区山本通5丁目58番地、武徳殿の西に移転」とある。神戸神学校が開校される1907年(明治40年)の翌年のことである。

 したがって、賀川夫妻の婚礼の場所は「下山手通7丁目」ではなく「山本通5丁目」の「神戸日本基督教会」であったことが、これによって確かめられるように思われる。



 なお、同誌の「教会年表」によれば、1908(明治41)年5月の同教会長老として「吉田栄蔵」の名があげられ、1911(明治43)年7月には「間野松蔵・大村甚三郎」の名も見られる。
 
 賀川の最初期の重要な大著「精神運動と社会運動」(大正8年)並びに「人間苦と人間建築」(大正9年)(いずれも警醒社書店)の著作冒頭に、それぞれ次のような「献呈のことば」を、賀川は名前を挙げて書き残している。

     此書を私の貧民窟の小さき改良事業
     に同情さるるマヤス博士夫人、福井 
     捨一氏、大迫武吉氏、吉田栄蔵氏に捧ぐ
            (精神運動と社会運動)

     此書を私の貧民窟の同労者なる馬島  
     |氏、武内勝氏、また私の信好の友  
     なる間野松蔵氏、大村甚三郎氏に捧げます
            (人間苦と人間建築)

 賀川豊彦にとって、結婚式の司式に当たった青木澄十郎牧師はもちろん、この教会の長老方との友誼の深さを、この「献呈のことば」に見る事が出来る。

 これらに関してさらに立ち入って検証が必要があるが、とりあえず「賀川夫妻の結婚の場所の発見」ということの報告である。(2009年7月31日記す。鳥飼慶陽)



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