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 前回、賀川の武内宛書簡の中に、神戸消費組合の組合長人事に触れたところで、賀川はこう書いていた。

「組合長の問題ですが、社会課長の木村義吉君から福井君を再度組合長にしてやって呉れ、と言うて来られましたが」云々と。

 賀川に進言したという「木村義吉君」とは、1920(大正9)年4月、神戸市が「救済課」を「社会課」と改称しその「初代社会課長」に起用され、大きな足跡を残した人物として知られている人物である。就任の翌月(5月)「生田川口入所」を継承し「神戸市中央職業紹介所」を開設した人でもある。
 木村義吉は、実務のみならず大変な論客でもあった。1921(大正10)年1月「神戸新聞」の「労働者余暇問題(上下)」や1926(大正15)年1月「大阪朝日新聞」の「真剣味を帯びた労働問題について」の論稿を読むだけでもその力量を知ることができる。(この論稿は神戸大学付属図書館「新聞記事文庫」にありインターネットで検索可能)
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 ところで、「玉手箱」に残された武内勝の手帳には、木村課長との仕事上の親密な関係が多く書き残されている。ここでは1949(昭和24)年の武内の手帳の中に、木村義吉氏を讃える文章が二箇所にある。下記のものは、見開きに鉛筆書きされたメモである。

1 社会課長として全国一の名課長であった。
2 神戸市に大きな貢献をした。
食堂、宿泊、紹介、病院、救護、質、保育、住宅、巡回産婆、案内
3 個人的に見た木村義吉。
 よき上司をもった課長は幸福である。
4 社会問題は解決したか。
 これからである
5 故人が復活して来たら各々の事業について喜んで頂けるであろうと思う
6 もう一度、此の世で会えるものなら、会って見たい気持ちで一杯である。
 社会事業に最初に従事した当時の精神を、今一度再興し、日本の再興に奉公したいものである。
 何人もの課長に仕えたが、木村課長程の人物はなかった。
 善き?であることを喜ばれると思う。

一度もしかられなかった。
計画について反対されなかった。
立場をよく解された。
部下を信頼された。
働きよかった。

十一月十三日一時、社会事業会館
三十日発起人会 午後一時 交通局会議室 式執行案を決定
木村課長に対する礼儀であり、又課長の我等に対する要求であろう。

 別の頁にも、次のペン書きメモがある。上記と重複するが、挙げておく。

木村氏は日本一の名社会課長であった。
市政の貢献が大であった。
各種社会事業を実施した。
部下を信頼した。
木村課長は死しても霊は生きている。
私は度々木村氏と会っている。
キリストのマタイ25の説話。羊と洋牛の話。
貧しき者に善き奉仕をしたもの。
木村課長は、君何うかと奨励される。
自分の場合は、日傭労働者が働いているか、溢れているかということであった。
課長は喜んでいる。
我々の肉は変化するが、霊は永久に変らない。
我々も木村氏の如く、奉仕しなければならぬ。
そうして善き羊として数えらるるものでありたい。
タラントの教訓。我々には木村先生の如き多くのタラントはないかも知れないが、与えられた能力を以って、善且つ忠なる僕として働きたいものである。

 神戸市の「社会課」は、内務省が1919(大正8)年12月に地方局の「救護課」を「社会課」に改称したのをうけて、上記のように翌年(1920年)春直ぐ「社会課」とし、兵庫県もそのあと数ヶ月遅れて改称する。賀川の「死線を越えて」の出版と同じ年のことであった。
 賀川豊彦・武内勝の仕事と重ねて、改めて「神戸市社会課長木村義吉」の神戸における大きな仕事を学んで見たい。

 (付記)こうして「木村義吉」を探していたところ、「保育の先覚者たち―人物でつづる兵庫・神戸の保育史」(昭和56年)を以前読んでいたことを思い出し、取り出してみると、その中に5頁に渡り「木村義吉と神戸市保育行政」の項があった。
 そこには、木村の写真も収められていた。(ここに添付しておく)
「神戸市の社会事業の父」と小見出しがあり、明治15年岐阜県大垣市に生まれ、昭和12年に神戸報国義会で講演中に倒れ、56歳の生涯を閉じるまでの木村の生涯が、簡潔な筆致で綴られていた。
 明治41年南カリフォルニア大学で神学と社会学を学び、大正4年帰国し新潟新発田教会で働き、大正6年横浜フェリス女学校高等部教授を経て、38歳の時、大正9年、初代の「神戸市社会課長」に就任した。
昭和10年に退職までの16年間、社会課長の職責を存分に発揮して、大きな仕事を担ったことが分かった。
 上に取り出した武内の手帳は、昭和24年のもので、この時木村義吉が逝去したものと推測していたが、昭和12年に木村は生涯を閉じていて、没後12年後の「式執行」は如何なるものであったのだろうか。新たな問いを残す事になる。(2009年6月23日記す。鳥飼慶陽)
 



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