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 「玉手箱」に残されていた賀川豊彦の書簡のうち、特に薄汚れた「郵便はがき」が一通あって、どうこれにコメントをつけて紹介するか思案をしている。
 表は、「神戸市加納町下 東遊園地内 東部労働紹介所内 武内勝様」とあるだけである。先に紹介した「中国の旅」と「台湾の旅」に使用された切手と同じ図柄の「大日本帝国郵便:壱銭五厘」の上に「?7 17」の日付が目視できる。
 そして裏の本文は「あまり人に言わないで下さい」と結ばれた走り書きのような私信で、次がその中身である。
「死線」を書かぬと生活に窮するので
仕事にアリマ(傍点)に来ました。お子供さんのこと
が気にかかるのです。祈っています。
日曜日は帰りますが、木曜日をよろしく
お願します。近い中に六甲の茶屋に引っ越す
かも知りませぬ。 
              トヨヒコ
あまり人に言わないで下さい。
       *    *    *    *

 「「死線」を書かぬと生活に窮するので・・」というのはどういう意味なのか。「死線」は全三巻あるが、大正9年10月出版の爆発的売れ行きとなった第一巻を仕上げる時なのか。それとも翌大正10年刊行の「中巻:太陽を射るもの」の執筆の時なのか。はたまた賀川夫妻が震災復興のため神戸を離れた後、大正13年に出された「下巻:壁の声きく時」を仕上げる時なのか。

 賀川が「書かぬと生活に窮するので」ということばには、彼の生涯を通じて著述活動に打ち込むときの大きな要因のひとつであったと思われるので、とりたてて注目することもないかも知れない。

 しかし、ここに「「死線」を書かぬと」と言うには、また特別の思いがこめられているようにも思われる。特に「死線を越えて」の第一巻で莫大な収益を収めることになった賀川は、それらを「私する」ことなく、すべて関係する諸活動のために注ぎ込んだ。それが彼の生涯を貫く生き方でもあった。

事実、第一巻刊行と同じ年、大正10年夏の川崎・三菱大争議で、多数の弾圧を受けた人々の生活支援に多大の資金を注ぎ込み、農民組合・消費組合・救済所・労働学校などにも活かしたことは、よく知られている。

 したがって「第一巻」のベストセラーによる「生活の飛躍的拡大」は、いつも「生活に窮する」事態を生み、さらなる冒険的開拓を重ねることになる。

 すると、「死線」を書くために妻・ハルにだけ告げて、いっとき「新川」を離れ、1週間ばかり、密かに「アリマ」にこもって執筆する時をつくることは、大切な選択であったであろう。
 ハルと共に厚い信頼を置く武内に、「木曜日」の集会の役目を任せる、これは「依頼便」である。

 文面には「お子供さんのことが気にかかるのです。祈っています。」とある。
 「玉手箱」の武内勝の手帳・日記には、賀川と共に過ごした大正時代のものは存在せず、武内夫妻のご子息のこともわからず、結局、「死線」を書くために「アリマ」に滞在した年を確定できず、お手上げ状態であった。
     *     *     *     *
 ところが本日、この葉書の唯一の頼みとなる「消印」をスキャンし拡大して確かめると、何と「馬有 庫兵」「12 7 17」が浮かんできた。

 ならばこの葉書は、大正12年(1923年)7月17日、有馬から発信されたものであった。一ヶ月余りして「関東大震災」が起こり、イエス団の人々は総力を挙げて救援活動に打ち込み、賀川は深田・木立・田井等と共に上京し、武内は神戸イエス団の全責任を託される。

 「アリマ」で執筆していた「死線を越えて 下巻 壁の声きく時」は、巻末に大正11年の「台湾の旅」と長男・純基(小説では「真基」)の誕生、大正12年9月1日の震災救援に出向くまでを書き込んで、「死線を越えて」三部作は完成し、大正13年11月、改造社より刊行されるのである。(2009年6月17日記す。鳥飼慶陽)



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