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 プリンストン大学留学前、新川尻海岸での壮行記念写真
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 「第二の玉手箱」所蔵アルバム(資料番号17−2)
「玉手箱」の中には、賀川から武内に宛てた120通ほどの手紙類(封書と葉書)をはじめ、長期間にわたる武内の手帳などに加えて、貴重な写真類も多く含まれている。

 今回はその古いアルバムの中から、関係者の間ではひろく知られている一枚の写真をご覧頂く。沢山の子供たちに囲まれ、豊彦とハルが真ん中に並んで座って撮られているので、二人の結婚(大正二年五月)の後ではないかという想像はつく。しかしこのような場面で正面に二人並んで写されるのには、何か特別の意味合いがありはしないかというおもいは残っていた。

 ちなみに、賀川生誕百年記念の折に刊行されたあの豪華な「賀川豊彦写真集」(1988年、東京堂出版)にも、当然この一枚は収まっている。それを見ると、103頁の写真番号223の説明には「豊彦とハルはよくスラムの子供達を郊外に連れ出した」とだけあって、撮影の時期と場所については触れられていない。

ところがこの度の「第二玉手箱」所蔵アルバム(資料番号17−2)には、貼られて写真の上に次のメモが記されていて、時期と場所に加えて、撮影の意図も分かる簡潔なことばが記されていた。もちろん武内の筆跡である。 「大正三年七月賀川先生プリンストン大学入学のため新川尻海岸にて記念撮影」

 この説明の通り大正三年七月の写真とすれば、豊彦とハルは新婚まだ一年少々が過ぎ、翌月二日には、豊彦は留学のため神戸港から丹波丸で出帆するわけで、武内の記す如くその「記念撮影」「壮行記念写真」ということになり、この写真の持つ「特別の意味合い」が了解できた。豊彦が旅立ってほぼ一月後(九月五日)ハルも神戸を発って、横浜の共立女子神学校で学ぶことになるのであるから、まさにこれは「賀川夫妻の壮行記念写真」ということである。

 この後、賀川が再び新川に戻るまでの期間、一切を任せられイエス団の留守をまもった武内ら「青年たちによる共産生活」の実行は、「私の生涯を通じまして、一番愉快な時でありました」と回顧する、まさに武内らしい生活が続くのである。

 なお、この写真の左下角には、小さな紙が張られ、名前が書かれている。

 少し説明を付しておくと、もちろん前列中央の二人は「賀川豊彦と春子夫人」。左端大人は「吉岡」。前列右端は「小田佳男」。その上は「伊藤平次」。最上段の学生は「平野」。その前は「徳憲義」。

 武内勝の口述記録「賀川豊彦とそのボランティア」によれば、伊藤、徳の二人は関西学院大学の神学生たちで、吉岡、平野も日曜学校や路傍説教に加わった青年たちである。                      (2009年5月12日記す 鳥飼)



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