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 賀川先生の献身についての証し 武内 勝
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賀川先生の献身の証し
貧民窟主題の小説書きたい
一粒の麦は生きている


  「Think Kagawa!」
  「賀川豊彦って誰?」
  「賀川資料館の雑芸員日誌」

 「第二の玉手箱」資料番号3−5「武内勝氏の証言」
400字原稿用紙に記す。執筆年月日不明(本文中に賀川の最後の著作「宇宙の目的」の完成のことや杉山元治郎氏が昭和30年に衆議院副議長に就いていることから推測して「賀川豊彦とそのボランティア」に纏められた武内氏の10回にわたる御話(昭和31年)の前後に記されたものと思われる。原稿の冒頭には「証言」と記されていたが、本稿の書き出しに「賀川先生の献身についての証し」とあるので、仮にここでのタイトルはそのようにしておく。この作品は「賀川関係の社会事業概要を作成する」ための草稿であり刊行された冊子が存在するはずであるが、これも未確認である。武内氏の貴重な証言となっている。
 今回、賀川関係の社会事業概要を作成することになったので、私はこの機会に、賀川先生の献身について証しをしたいのである。

 先生が二十一才の若輩で、神戸葺合新川の貧民窟において、神と社会に奉仕するために「一粒の麦」として死を覚悟して献身されたことは、周知の事実である。その新川はどのような部落であって、先生はそこで何をされたかということについては、先生の著作で明瞭であるが、私の見た実体の立証と新川の改善について如何にすべきかを、簡単に申し添えることをご了承願いたいのである。
 詳細にわたるご報告は別に機会があろうかと存じ、また紙面の都合もあるので、その一端を記して概要のご理解を願う資料に供し、将来いっそうのご指導とご鞭撻と御協力とを仰ぎたく衷心よりお願い申し上げる次第である。

 一 神戸葺合新川の沿革

 (原稿用紙最初が欠ける)
・・・その上に年中、賭博、喧嘩が絶えず、犯罪が多くほとんど毎月殺人事件が起り、罪悪の巣窟の感があったからである。

 二 住宅

 新川の住宅はほとんど棟割長屋で、多くは一戸当りの総面積が一坪半であった。それに畳二枚を敷き半坪は土間になっていて、台所も押入れもなく、便所は長屋の端に設けてあって共同になっていた。朝は超満員で溝が便所となり、戸のない便所も使用されていた。
 借家人は畳二枚の一間に夫婦二組が同居している者もあれば、四畳半に十一人居住している家族もあって、一戸当り平均四人二分居住していた。畜舎に劣る不良住宅は、街を不潔にし風紀を乱し、また様々な罪悪を醗酵させるのである。

 三 職業

 技能者は本当に少数であって仲仕、土方、手伝、人夫等の日雇労働者が多数であり、鋳掛、下駄直し等に従事する者がこれに次ぎ、或は飴、団子、辻裏等の行商人も相当にいた。その他当時の神戸における拾屋、乞食の大部分は新川に居住していた。何れも収入が著しく低くて而も不確定であるから、貧困者となるのも当然であって、貧困の最も大きな原因は技能をもっていないことである。

 四 教育程度

 明治四十三年の調査によれば、児童のうち昼間小学校に通学している者は、百人中僅かに三人であった。また新聞を購読している者は実に稀であり、婦人にしてはがきの書ける者はほとんどいなかった。従って迷信にとらわれやすく、犯罪の多いことも道理であった。

 五 男女の関係

 葬式はよく見るが結婚式は滅多に見られなかった。新川では「寝た者夫婦」が多く、自分の夫の渾名のみを知っていて姓名も年齢も知らず、しかも永年同棲している者もあった。甚だしきに至っては妻に淫売を強制し、夫は家の外で見張りをしていて妻の姦淫を営業と心得ている者があり、夫を貸して金儲けをしている人もあった。淫売婦の多いせいもあって性病患者が多く、頭や首に穴があきそこから膿のじくじく流れている者があり、鼻のない人もいた。

 六 簡単な言葉

 飯を食わないことをノーチャブと言い、それが二度以上続くときは、ノーノー、チャブチャブと言っていた。野宿するときはハウスと言う。友人を呼ぶ場合にも通称であってオイ東京、大阪、岡山、土佐と言った調子で、その人の郷里の地名をとって渾名とする。首に穴があるのでトンネル、頭に穴があれば噴火口、肥ればデブ,痩せたらいかなご等その人の特長によるもの、或は動物や植物の名称で適当な名付けをする。それを無遠慮に呼び捨てにしているが、馴れると妙なもので失礼とも思わず、呼ぶにも呼ばれるにも双方便利であり、喧嘩の際は更に簡単になる。その他合言葉があり隠語がある。

 七 酒と間食

 部落の各四つ辻に酒屋があり、小路の中にも飲食店や菓子屋があって、酒をよく飲むこと、間食の過ぎていることには驚かされる。これだから貧乏するのだとさえ考えさせられるが、習慣は恐ろしく改めることは容易でない。

 酒飲みは、飲むので被服が買えない、薄着だと寒いのでまた飲む。妻子が飢えていても日給を貰ったら帰りにはきっと飲む。年中どこかで酔っ払いが倒れているし、それが冬になると凍死者も出る。酒飲みは酒でどれほど失敗があっても損失があっても、妻子が飢えてもいても矢張り飲む。酒は天から授けられていると解釈している。間食は食事の補いだと言うが、間食費が食事費の不足となり困った循環をしているのである。

 八 ものを言う暴力

 労働能力があり元気であっても徒食し、金の欲しい時は「俺は無学だ」と無茶を言い「前科者だ」と言っては腕力を振るい、恐喝して儲ける者がある。不労所得で生活し、なおかつ賭博に耽り酒に酔っ払っては威張っているのである。殺人罪による前科があっても街の顔役になっている者もある。「人殺しは一生涯食うには困らぬ」と賞讃する者があり、これを羨望する青年たちもいた。新川では腕力の強い者が兄貴になり、最も強い者が親分となっていた。傷害罪は自慢となり、殺人罪は親分の資格となる。弱くてにぶい者は働くのである。

 九 勝手な権利と義務

 十二、三歳で売られて行く娘は沢山あった。「わたしゃ売られて行くわいな、父さんは無事でまた母さんも」とよく歌っていたが、歌詞そのままが実行されていた。「親は娘を売る権利がある」と思っていたし、娘はそれを孝行と諦めていた。中には自ら売り出して行く勇敢娘も珍しいのではなかった。「私は若いとき女郎になりたくて仕方がなかったが、親が許して呉れなかった」と残念そうに若き日の思い出を語るおばさん達もいた。少しでも気の利いた家に住み、ましな着物を着て、食べ物に心配のない生活をしようとすれば、身を売る以外にその実現の見込みが立たなかったからである。

 十 新川は市の癌

 ドン底生活に落ちて自殺か革命か忍従か、この三つの何れかを考えない人はないと思う。自殺は卑怯であり、革命は容易でなく、忍従するより仕方がないと言う結論になっているようである。けれども忍従は耐え難い苦痛であるが、自殺する者は稀であり、生活の向上は容易でなく、大多数は自暴自棄になる。

 良心を失い非常識となり、利己主義となって犯罪を恥じず、暴力を頼みとし、肉を売ることも希望となるのである。倫理・道徳を失うばかりでなく、社会の秩序を無視するようになる。それは自分の殻を自力で破るには余りにも無力であるからであって、貧乏で無学で無技能であり、協同の精神がなく団結の力もない。社会は冷たく同情もしない。却って差別視するからである。

 子供らは歌う。「あっちの方日が照って、こっちの方日が照らぬ。照る照る坊主に言うていこう」と。成人は言う。「新川には水がなく、落ち込めば最後で何時までたっても浮かべない」と。

 新川は豊年であっても好景気であっても別世界であって、光もなく潤いもない。生活に疲れ、愛に飢え、霊は衰えひからびている。この環境に生まれ、ここに成長して、不良化しない者があれば不思議なことであり、善くなる人があればそれは実に奇跡であると思う。かかる環境が、都市の一角に永年存続していて癌となっていることは人道上の問題であり、市の恥辱である。

 破壊か改善か救済か何等かの対策が講ぜられるべきであった。しかし矯修会が拾屋の集めたものを買収しその便を計っていたものと、善隣幼稚園が無料保育を併設していた外はどんな社会施設もなく、全く放任されていたのである。

 十一 献身

 明治四十二年十二月二十四日、現在社会福祉法人イエス団及び同雲柱社の理事長賀川豊彦先生は、若輩二十一才にして神戸中央神学校在学中に、神戸葺合新川に伝道と救済とを目的として献身された。

 十二 救霊団設立

 新川部落の中心である北本町六丁目二二〇に、新家定吉という親分の所有している借家があった。かつて殺人があり、幽霊が出るという噂で借り手のない空家である。面積三坪で日家賃七銭の長屋であって、これを借家し「幽霊長屋」に救霊団を設けた。これが教会であり救済所でありまた居宅でもあった。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい何んの設備もなかった。日本一の小教会であったと思う。後日、隣接していた三戸の長屋をも漸次借家し、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていた。

 十三 名称変更

 救霊団を設立して二年後に、救世軍神戸小隊長金子氏は、救世軍を退き救霊隊を組織したので、救霊団と名称が酷似していてまぎらわしくなり、双方の迷惑を避けるために「イエス団」と改称した。

 十四 最低生活

 先生は、頭はハイカラで顔は美しく、首から上は立派で勝れた気品があった。しかし服装はまことに粗衣であり、下駄は一足十銭で最低であり、袴をぬげば新川によく似た風采であった。食物は肉や魚は一切れも食べず、絶対の菜食主義で、麦飯に焼き味噌を常食とし、最高の御馳走は金三銭也のキツネうどんであって、十日に一度位このために散財した。体重は辛うじて十一貫台を維持していたに過ぎず、誠に極端な粗衣粗食であって、どう考えてもパンのみにて生きている人とは思われなかった。先生は常に貧乏に堪える工夫と努力を続けられていた。

 十五 熱心な勉強

 先生は年中午前五時に起床し、日曜日の他は直ぐに読書をはじめる習慣があって、五六百頁ある洋書を一日に一冊は読まないと罪を犯した感じがすると言い、努力せざるは罪悪と考えていられたようであった。多く読み多く語り多く書き、それが現在に及び、その著書は百五十冊となり、このたび完成の大著「宇宙の目的論」は、その頃から研究されていたもので、二十才にして計画し七十才に及んで完成されたのである。

 十六 よく泣いた貧民の友

 先生には貧困者を見捨てることの出来ない情けがあった。新川の乳児死亡率が日本一高いことを発見して驚き、救済費のない国家の予算に憤慨し、痩せた赤ん坊を見ては泣き、捨児を抱いては泣いた。蜜柑箱を棺桶にした赤ん坊の葬式に泣いた。高利貸しの利子に難儀をしていると言っては泣き、金がなくて助けることが出来ない時にも泣いた。社会の無慈悲に泣いた。その都度目は充血し、瞼は腫れ上がり、涙が両頬を流れていた。

 十七 午前五時の礼拝

 日曜礼拝は、年間を通じて午前五時に始まり六時に終った。労働者の就業に支障のないためであって、冬期にあっても時間は厳守された。それにも拘らず礼拝に遅刻する者はほとんどいなかった。

 礼拝後は直ぐに讃美歌伝道に出掛け、小路から小路を歌いつつ巡回した。寝床の中で「ヤソが来た、今日は日曜日だ」と言っている者があり、「めさめよわがたまこころはげみ」という讃美歌をよく歌っていたので「ヤソは朝寝坊しないように起こしに回っているのだ」という者もあった。

 朝食は七時から八時であって、この食事中に先生から様々な話を聞くことは、私どもの楽しみであった。わけても人物についての批評は大きな教訓となった。九時から一時間、日曜学校を開いた。子供たちは時間が解らないので待っていたのでは出席しないが、先生たちが街頭に出て讃美歌を歌えば百人二百人は忽ち集まって来た。

 子供たちは親から毎日何回となく「奴阿呆、奴馬鹿、奴狸、奴狐、奴多福、奴盗人、奴淫売、すっとこ、ひょっとこ」など罵られたり、叱られたりしているのである。単に口先ばかりでなく、打つ叩くの暴力を加えられていて、親切に飢え切っていたから、先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜びであった。

 十八 伝道集会

 夜の集会は日曜と水曜の週二回であって出席者は二十人内外であった。路傍説教は毎晩であって、太鼓と提灯とあればどこでも集会は出来た。提灯の一面は赤で十字架を記し、両面は墨で「神は愛なり」と書いたものと「罪を悔い改めて天の父を信ぜよ」と書いたものがあった。特に大きな高張り提灯もあって、これが先頭にたって前進していた。

説教は普通四辻で行い、聴衆は大抵三十人から五十人位であって、多い時には百人近くも集まった。信徒は信仰の体験を語り、先生は知識と知恵と大声と熱とをもって福音を説き、聴衆をして常に感激させた。路傍説教は犯罪の防止に相当効果があったと思う。屋内集会の出席は二三十人程度であって、老人と病人とが多数を占めていた。

 新家の身内であった土建請負業、出村親分の妻はイエス団の集会に出席するようになり、同じく新家の身内であって何時もピストルを話さなかった小寺は、己が罪を反省し腹を切ったが自殺未遂に終った。後には自宅を町会の事務所に提供し本人は町会長に推されていた。更に殺人事件が起らなくなったことなどがこれを証明している。

 十九 無頼漢の迫害

 伝道の妨害や迫害は充分覚悟の上ではあったが、打たれ叩かれる辛抱はともあれ、出刃包丁、短刀、刀、ピストル等の兇器を突き付けて脅迫されることは、幾たび経験をつんでいても実に不快なものである。先生は脅迫の都度、聖者を思わしめる態度で静かに祈り、殴られても蹴られても、祈りの姿勢は変えられなかった。「為すところを知らざる者のための祈り」であったと思う。脅迫はしばしばあり傷害の危機は幾度もあったのであるが、常に天の父の守りのあったことは、今も涙に咽ぶ感謝である。

 夜の集会では、屋内でも路傍でも度々妨害者が現れ、兇器を逆手に飛び込んできて乱暴する者があり、提灯を一度に十四個も叩き破った者もある。彼等の中には、前科五十六犯の刑務所を本家としている大男もいたし、説教の最中に馬を挽き入れて聴衆を散らして得意になる変わり者もいた。

 最もねい猛な無頼漢は松井であった。彼は、「賀川は新川をだしにして『死線を越えて』その他の本を書き、それで多く儲けているから、その配当を出せ」と強く要求するのであった。彼は常に短刀を懐中に持っていて「賀川を殺すことは銀と鉛の交換だ」と口癖に言いふらしていた。

松井は教会に来て畳の上に痰唾をはき、床の間に小便して平気であり、金を取るまでは何時間たっても動かないのであった。先生の前歯を折ったのも彼であり、夫人に短刀を突き付けて常に悩ましたのも彼であった。

 村田は恐喝が専門であり、傷害罪の前科者であった。身体に数十箇所の刀傷があった。目はナイフで刺されて一つとなり、頭と顔に刀の傷が数ヶ所あり、両手両足、背に腹に実に多くの傷跡があった。彼が教会に来て刃物を畳に突き立て、出席者を睨み付けて恐喝したことは、五十回や六十回ではなかった。しかし彼等の終わりは憫れである。

 村田も元気が衰え,済生会病院に収容されていたとき、四方八方から刀の刃が飛んできて危険で堪え難く、この病室には居られないと看護婦を通じて助けを求めて来た。彼は人をいじめた如く人からいじめられているような錯覚を起こし、恐怖の余り呻吟していた。「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」との祈りを覚えることは尊い経験であり、かかる機会を得ることは感謝であった。

 二十 奉仕の協力者

 イエス団開設当時、関西学院の神学生であった矢田文一郎、伊藤平次、徳憲義、米倉次吉、その他吉岡、鈴木、平野等の諸氏は毎集会出席され、児童の指導にまた伝道によく奉仕された。忘れてならぬ感謝である。

 時代はずれるが、佐藤一郎氏は「死線を越えて」を読んで感激した一人であって、東京において数年丁稚奉公をし、貯蓄した金壱千円也をイエス団に献げ、賀川先生の弟子として新川に献身することを申し出た。彼は関西学院神学部に通学しつつ、イエス団の書記をしていたが、不幸にして肺結核で退学し、その後夫人と二女を残して永眠した。夫人は今もイエス団に奉仕されている。

 杉山健一郎氏は、イエス団の第一回林間学校開設から児童の指導方法に先鞭をつけた。また古着市にも努力され、貧しい人たちによく奉仕された。同氏が神戸を去った後も、林間学校は戦争による食糧事情で実施の出来なくなるまで継続していた。

 高比良佐馬太氏は、昼間は失対事業に就労し、日給一円二十五銭を儲け、夜は学童の予習・復習の指導をしていた。特にボーイスカウトに参加して労働賃金の三分の二までは児童の服装と指導に使っていた。同氏は現在長崎県下において学校教諭に奉職中である。

 森?氏はスタンダード石油会社の通訳であった。同氏は「善人たらずば悪人となる。クリスチャンは進んで善事に参加すべし」と主張され、イエス団夜学校の英語教師を無報酬で担任されていた。

 イエス団の歳末奉仕は二つあった。ひとつは餅をつき恵まれぬ家庭百戸に対し一戸当たり一升分を贈呈していた。しかし米が配給制度になって廃止した。いまひとつは、毎年古着の寄付を各教会に依頼し、これを纏めて古着市を開き貧しい人たちに最低値段で分配し、更に売上金をもって児童の学用品その他を支給し、多くの人たちに奉仕をしている。

 神戸生活協同組合の家庭会は、貧困者に対し歳末奉仕として会員の手によって古着を集め、毎年イエス団において古着市を開催されている。夏は裸でも暮らせるが、冬は裸では過ごせないのでご協力をお願いしている。古着市は毎年行事の奉仕運動である。

 従来献身者があり奉仕者があり、または協力者を与えられ応援者が現れ、多くの支援のあった事は、衷心より感謝に堪えないところである。

 二十一 慈善

 新川には病人が多く欠食者があり、出稼ぎまたは旅人も多数であった。それで病人には医師の治療を施し、飢えた者には給食し、旅人には汽車または汽船の切符を買って能う限り支給した。我に金銀なし、ナザレのイエスの名によりて助言のみの場合もあるが、能う限り支援した。

 行路病者、老衰者、身体障害者等については常時数名を収容し、先生は病者と同室に起居し、大小便に至るまでの面倒をみつつ保護されていた。救済費の予算は、先生の労働による収入でそれに当てられ、「五つのパンと二つの魚」をもって祝福を祈る慈善であった。後日、後援者による寄付金はその全額が救済費に使用されていた。

 二十二 食堂の開設

 新川には十四軒の木賃宿があり、宿泊者は千人を越えていた。宿では一切給食していなかったので、外食者のために食堂が必要であった。

 明治四十三年教会員の失業対策を兼ねて「天国屋」と称する食堂を開設した。食堂の利用者は相当にあったが、「ここは天国屋だから」と言って飯を食っても代金を支払って呉れない者があり、収支が相償はないために、やむを得ず閉鎖した。神戸市が市内の数箇所に「公設食堂」を設けたのはそれから八年後のことであった。

 二十三 青年の指導

 青年男女のために小規模ではあったが「夜学校」及び「裁縫塾」を設けその教養に努めていた。しかし予算、講師その他の諸種の事情により永続することが出来なかった。もしこれを継続していた場合は、新川以外にあっても独立生計の立つ人たちを産み出す大きな力となっていたに相違なく甚だ遺憾であった。

 二十四 先生の結婚

 大正二年五月二十八日、賀川先生は神戸福音印刷株式会社社員芝房吉氏の長女春子様と神戸日本基督教会において、青木澄十郎牧師司式のもとに結婚式を挙げられました。

 先生の夫人となるには、次の資格を具備していることが必要であった。
 1 健康にして労働能力があること
 2 住宅が不潔であって蚤、南京虫、虱等の巣のような不潔な居間の中に起居すること
 3 菜食主義者となること
4 病者や身体障害者の看護をすること
 5 夜は毎夜路傍説教に参加して証をすること
 6 貧民窟を訪問して女中代わりの奉仕をすること
 7 日々の如き無頼漢の脅迫を忍耐すること

 以上の適格者は容易に得難く、神様は善き半身を揃え給うた。私は結婚の際に祝辞としてこのことを述べたく考えたのであるが、式場には先輩者が多く、また説教じみたことを申し上げることは却って失礼かとも考え、遂に躊躇して述べ得なかった。

 二十五 洋行

 大正三年八月二日、先生はアメリカのプリンストン大学に入学するために、神戸から丹波丸にて出航された。その節、神もし許し給はば、米国において金十万円の寄付金を得、これを以って新川に施療病院を建てること、募金が困難な場合は博士の学位を得て帰ることであった。しかし二年七ヶ月の後、先生から「米国にもキリスト以上のもののないことを発見して日本に帰ります」と書いたはがきを貰った。キリストの如く祈り、キリストの如く人を愛し、キリストの如く十字架を負う、この「キリスト精神」を再確認して、大正六年五月四日帰朝された。

 賀川夫人は先生渡米後、横浜の共立女子神学校に入学し、先生の帰朝後共立を卒業して神戸に帰り、先生と共に伝道及び社会事業に協力して一層精進されることになった。

 二十五 弟子どもの共産奉仕

 先生の不在中も天の父の御恵みにより、伝道と社会奉仕は継続した。 青年たちは少数であったが、使徒行伝四章三十二節に記されている初代のキリスト信者たちの共産奉仕に習い、各々が労働によって得た収入を共にし、最低の簡易生活に満足し、各自の小遣銭は、散髪代と風呂代と下駄代位のものであって、残りは全部奉仕に捧げることが出来た。

 なお伝道と事業の実施を便にするために、教会の新築を計画し、三間に八間,二十四坪の設計図をもつくって、適当な土地を求めていた。幸いにして現在イエス団の表の東隣りにあった酒屋が空き家になったので、これを借家してここに教会を移し、夜学校も開校することが出来るようになった。先生の不在中大過なくご奉仕に当たり得たことは、誠に感謝の至りであった。

 二十七 教会員

 イエス団の創設当時の集会には老人が多く出席していたが、その中には次のような人たちもあった。
鬼の婆さんは貰い子殺しをしていたので「鬼」の渾名がついていた。人相もよくなかったし窃盗の癖もあった。彼は教会に来て説教を聞き、涙を流して懺悔していた。

 杉本は無頼漢であったが、改心し救われて一家を整えた。彼は或る暴風の夜、静かに祈りかつ考えていて、モグリの拾屋を考案した。神戸港には多くの船舶が出入りするので、その荷役には海に落ち込む荷物の幾多あり、殊に暴風による沈没船があり、海底の藻屑となる損失の膨大であることを考え、これを潜水夫により引き揚げる事業を神戸で最初に考案し、その許可を得た。この潜水業に成功したので、息子をして帝大を卒業させ、数ヶ所に借家を所有することが出来た。彼は「真心になって依り頼めば、神は必ず恵み給う」と何時も変らぬ証しをしていた。

 植田の職業は豆腐屋であった。彼は呑み助でありインチキ博徒であって、人を切ることは八回、人に切られること十三回、前科三犯の極道者であった。嫁を貰っても愛想つかされ、六人貰ったが一人も残らず、みな逃げられた。彼は生活にも行き詰まり、自殺か夜逃げかの岐路に立ち、やけの一杯飲んでいたが、路傍説教を聞き、それが動機で改心した。或る夕方、教会員が訪問した時、植田は真っ赤な顔をして涙を流していた。一杯飲みたくて堪らなくなったが「一升徳利に負けてはならぬ」と赤い唐辛子を噛んで我慢し、「いま戦いの最中だ」と禁酒の断行に努力していた。彼は路傍説教に参加し、「私は七人目の嫁を貰ったが、目はひとつで、私が片目だから、二人で一人前だ」とか上手に面白く話していた。後には、大安亭市場の中で「ヤソの豆腐屋」で有名になった。

 軽焼屋の新造さんは、朝起きると聖書を読み、「一日のパンを恵まれること」と「悪魔に心を汚されないこと」を祈っていた。しかし貧乏に追われて、洗礼を受けていたのに心が汚れたと、清い心が欲しさにひとり海に飛び込んで、再び洗礼を受けた人である。

 豊年屋のお作さんは、目がカンチで顔一面にあばたがあったが、新川にいた企業者の親方であった。彼はお祈りをするとき、弘法大師の姿が現れる、これがイエス様の姿に変るようにと、一生懸命祈っていた。通称「三公」は豆腐屋の売り子であって、ある日行商先で、豆腐の荷を荷馬車が引き倒した。それに腹を立て馬子を天秤棒で殴り殺したので、懲役七年の前科者となった。彼は心臓と腎臓と梅毒を患い、全身が腫れ上がり、頭にも首にも穴があき、年中膿が流れていた。教会はお粥を炊いて施していたが、三公に死が近づいたとき、毎夜幽霊が出ると怖れていた。

 新家の親分には数百名の子分があって、子分は親分のためとあれば人殺しもするし自分の生命も献げるのである。親分は偉いと自信し、人も偉いと思っていた。けれども夫人は洗礼を受け教会員となっていて、「ひとり息子が親の真似をしないで真面目な立派な人になって欲しい」と祈っていた。

 島田は、無頼漢「目玉の文」を切り殺した前科があった。ある日妻から「妾に五十銭やる時は私にも五十銭貰いたい」と要求され、それが癪に障り妻を丸裸にして両手を後ろに縛り上げ、太股に刀を突き刺した。
また夜遅く帰宅した時、戸を閉めてあったのが立腹で、村田銃で息子を撃った。幸いにして弾は急所を外れていたが、太股貫通の重傷を負わせたこともある。彼も教会員となっていた。妻は信仰に熱心で、夫に太股を刺されたとき騒ぎもせず声も出さず、ひたすら「天父の神様、私の霊を今み前に献げます」と祈ったのである。

 井上きぬさんは、稲荷落しであって仙吉と言う主人があった。主人は一杯飲むと直ぐ、ぐずぐず言うので「ぐず仙」の渾名がついていた。きぬさんは路傍説教に参加して、「私は鳥の鳴かぬ日があっても夫婦喧嘩をしない日がなく、夫が短刀で来るときは、私は出刃でかかっていた。しかしイエス様を信仰するようになってから、喧嘩はひとつもなくなった」と証しをしていた。一人の息子は神戸中央神学校を卒業し、後には米国から欧州を「賀川の弟子である」と言う理由により、多くの援助を得て視察旅行に成功した。

 猫のお婆さんはイエス団のラザロであった。天涯孤独であって拾屋をして生活していた。淋しいためか好きであったのか、猫を十三匹飼っていた。雄は息子の如く雌は娘の如く、小さいのは孫の如く可愛いのであった。お婆さんの体は、顔も手も足も皆猫がナメてきれいになり、冬は煎餅布団一枚に十三匹の家族がみな這入り、湯たんぽも炬燵もいらなかった。けれども八十二歳で病気し、教会は五日目毎に精米一升を寄贈していた。近所の子供が猫のお婆さんの「扶持をおくれ」と使いにきていたが、猫が一匹去り、また一匹去り、十三匹がみな去ったとき、ラザロのお婆さんは永眠した。

 岸本老夫婦は、年齢のため無職となり、大阪で靴屋をしている息子に生活扶助を頼んだが、「親は俺を産んだであろうけれど、俺は親に育てて貰らわなかったから、親を扶養する義務はない」と断った。生活に窮した二人は、教会の保護により収容されて飯炊きをしていた。

 岸本氏が七十二才の時、老衰のため意識不明となり二十四時間後には永眠したが、無意識のまま「有難いなあ、有難いなあ」を何十回となく言い続けて息が切れた。

 山科のお婆さんは七十才を越えて失明していたが、何時訪問しても縫い物をしていた。お婆さんは「眼は見えないけれども神様は有難い」と感謝し、「聖書は読めないけれどもイエス様は私をお守り下さいます」「私が針の耳に糸を通しボロの修理の出来るのは信仰のお蔭です」と涙ながらに感謝していた。
何度会っても一度も愚痴を漏らさず、感謝と喜びに満ち溢れ、顔は美しく耀いていた。三十五年信仰生活を続け、戦時中永眠した。

 二十八 授産場設置

 大正六年七月、先生が発起人となり、「大正歯刷子製造所」と称する刷子工場を創立した。ここに二十数名の青年たちを就職させ、約百名の婦人たちに刷子の毛植を授職した。

 青年たちは讃美歌を歌いつつ、喜び勇んで働いたが、技能の進歩は容易でなく、高級品の製造は困難であった。また婦人たちの内職は相当経験を要し、歯刷子の毛は高価であって、物を粗雑にする習慣のある新川には不適当であった。工場の運営は製品が輸出向きであって、二年後には貿易不振により注文が途切れ、製品のストックは資金難となり、継続の名案なく遂に解散した。

 二十九 無料診療所開設

 大正六年の夏、賀川夫人を中心に訪問看護が開始せられ、長屋の戸毎を訪れて病者の手当てに奉仕するのであった。特に貧民窟にはトラホーム患者が多く、その治療に日々巡回点眼を実施した。それが直接の原因か否かは不明だが、賀川先生夫妻は共にトラホームの感染により視力を半減され、そのまま慢性となり、幾度治療しても全快に至らず、生涯の苦痛となっている。

 その翌年七月、イエス団内に「無料診療所」を開設した。これは先生の九年にわたる永き祈りであった。部落には貧乏で医者に一度の診察も受けず病死する不幸な人たちもあったので、それ等の人達にたいし救済の目的が達せられるようになった事は、新川の喜びであり感謝であった。

 三十 法人組織

 大正十一年三月、先生は著書「死線を越えて」の印税金壱万五千円を基金として「財団法人イエス団」の設立を計画し、同年七月二十九日、内務大臣の許可を得て事業を組織化した。
さらに人事相談、労働問題、婦人問題、児童教化等それぞれ専任の担当者を置き、隣保事業の強化を計り部落の福祉を増進した。

 三十一 社会福祉施設の動機

 明治四十三年、幸徳秋水の明治天皇不敬事件後には、御内ど金を基本とする恩賜財団法人が組織され、新川にも「済生会病院」が開設された。

 その後大正七年、米騒動の後には「方面委員制度」が設けられ、また「救護視察員」の実現となり、「デモクラシー」が謳歌され、「普通選挙」が実現された。さらに小学校が開設されて不就学児童が殆どなくなった。

「死線を越えて」の小説は、政府における全国の不良住宅改善の予算審議の資料となり、新川の不良住宅も部落の一部ではあるが鉄筋コンクリートのアパートが建設された。
敗戦後においては生活保護法が制定され飢死者がなくなり、乞食もその跡を絶つに至った。これを明治の末期に比較すれば著しい進歩であって、貧しき者の大きな福祉となっている。ただ遺憾に堪え難く思うことは、貧民部落の改善は、社会に大きな変遷が動機となって行なわれるのであって、平時にあっては改善されないことである。これでは社会に大変遷の起ることを期待させることになる。波風の起らぬ平時にあって、貧乏の福祉対策が一段と進められたいものである。

 三十二 貧民窟の膨張

外部から新川に落ち込んで来る者はあるが、新川から外部に出て行く者は稀であった。もし出て行っても多くは元の古巣に帰って来た。それに貧乏人の子宝でもって人口の自然増加は著しく、貧民窟は膨張するばかりであった。賀川先生は「大阪湾の海水はおたま杓子ではかえ切れない」と言われたが、新川で貧困者をいくら救済しても次から次へと要救護者が出るのでは全く救い切れないのである。

三十三 防貧運動

 1 労働者は個々においては弱者であるが、団結すれば非常に強力となる。先生は労働組合を組織し、その団結の力により労働条件を改善し、また友愛互助による防貧運動を構想されていた。
大正七年、労働運動に参加し、労働組合の組織についてその指導、奨励に努力し多くの組合の結成に成功した。

 特に大正十年七月、三菱・川崎両造船所の従業員三万近くの者が、一ヶ月にわたり大ストライキを起こした時、その指導者として第一線の先頭に起ち、炎熱に暴されつつ、連日市内を練り回り、凡てのものを犠牲にして闘争を続けた。当局は、争議がより以上に永引く場合は暴動化する恐れがあるものと見做し、姫路第十師団より歩兵の派遣を受けて警戒に当たり、さらにこれが解散のために幹部を悉く未決監に拘置した。勿論賀川先生も収監されたのであった。

 争議は当局の弾圧により遂に惨敗し、多くの罷免犠牲者を出した。しかし犠牲は労働福祉の種となり、労働時間の八時間制は全国に波及し、労働条件の改善が漸次実現するようになった。先生が労働運動に消耗した金と時間と勢力は実に莫大であった。

 2 消費生活を合理化し、防貧の効果を挙げるために「生活協同組合」について研究し、かつ計画し大阪、神戸、東京に相当な私財を投じて組合を設立した。その他多くの組合の指導、奨励に当たり、その発展に努力された。現在日本生活協同組合連合会会長に就任され、その発展に努力されている。

 3 都市の労働者の生活がたとい豊かになっても、農村が貧乏である限り農民は都市に集まり、都市は失業洪水になる恐れがある。従って農家の生活は農村において安定させる必要があり、農民の生活安定化には「農民組合」の結成が優先であって、先生は農民組合の組織化に努力された。

 現在衆議院副議長の杉山元治郎先生等の協力を得て、大正十年、イエス団児童館に於いて組合活動の準備が進められ、翌十一年四月には神戸YMCAにおいて「農民組合第一回全国大会」を開催するに至った。

 また農村経済解決の一助に「立体農業」を考案し、クルミとペカンの種を年々輸入した。これを全国の所要地に分配し、山に植えることを奨励した。現在、既に相当な収益を挙げている処がある。
さらに昭和二年より毎年二月の農閑期を利用して「農民福音学校」を開設し、農村の青年たちを指導した。

 三十四 宗教運動

 大正七年、米騒動においては、日本にも共産党活動が漸次盛んになり、労働階級、青年層、学生間にはこれに共鳴する者が日々増加し、赤化の傾向が見えて来た。賀川先生は暴力革命に反対し、唯物主義の不合理の暴露に努めた。同時にかつて英国が宗教運動の旺盛により暴力革命を避けた如く、日本も同様にこれを免れるために祈りかつより重い十字架を負い、大正十四年には「百万人救霊」のため、昭和三年には「神の国運動」として、いくどか死を決し全国を巡回して「血味泥伝道」に従事された。

 三十五 社会事業の発展

 明治四十二年、「幽霊長屋」において煙突掃除の収入をもって人助けを始めた慈善が年々飛躍した。あるいは同志を得、又は協力者を与えられた。事業は組織化し、施設は発展し、神戸に止まらず他府県に及ぶことになった。

 特に大正十二年九月一日、関東大震災の際は、翌二日の各新聞はその被害状況を伝え「東京全滅」の記事で満載していた。先生は新聞を立ち読みしながら東京救済援助を決意し、直ぐに上京の支度を整え、神戸より乗船し一路東京に向かった。東京本所松倉町に診療所を開設し、宿泊所、夜学校、女学校等を設け漸次事業を拡張した。

 三十六 新川の現状

 昭和二十年六月五日、戦災により新川は鉄筋コンクリートのアパートのみが火災を免れ,その他は全部灰儘となった。

 しかし終戦後、市内の復興に従い、新川にも畜舎に劣るバラックが建つようになり、戦前不良住宅改良により一部住宅を撤退した跡の空き地も、或いは新生田川の両側も、又は部落の東に北に粗末なバラックが多く建ち、貧民窟が拡大されるに至った。新川及びその付近の人口、失対事業登録者、要生活保護等を数字で示すと次の通りである。(原稿には下記の項目のみで数字は示されていない)
戸数 人口 失対事業登録者 要生活保護者 要医療保護者 不就学児童 

三十七 新川の改善

新川の改善については、外部からのものと内部からのものと二つの方法があると思う。外部からの改善にも部落の分散と固定との方法があって、部落を分散して全然なくすものと部落自体を改善するものとがある。

 神戸市は固定改善の方法により既に一部不良住宅を鉄筋コンクリートのアパートに改良している。住宅改良は結構ではあるが、部落の缶詰となり外部から受ける差別扱いは容易に解決のつかない結果となる。
分散の方法は、部落外に分散的に住宅を建設し、それに順次移転させることである。立ち退きの跡は公園若しくは工場地帯等適当に使用し、再び不良住宅建築の許可をしないことである。改善費の予算については、部落内と外と何れに住宅を設けることも大差はないが、効果においては雲泥の相違があって、部落の撲滅か存続かの岐路になる。

 内部からの改善は、技能と道徳の問題であると思う。部落の生活困難の最も大きな原因が二つある。世帯主のほとんどが無技能者であることと、青少年が技能習得の出来る職場に就職することが困難であることである。労働能力があってもニコヨンでは常時失業状態にあるから貧困者になることは当然であるが、技能者として就業する場合は、生活保護を受ける必要がなくなるのである。

 一世帯に一人真面目に働く技能者があれば、その一家の生活は保障される。それにも拘らず新川の青少年たちは、将来性がある技能の習得の出来る職場からは敬遠され差別扱いを受けている。それは使用者側のみに責任があるのでなく、就業希望者側にも過去において種々敬遠される行為があったからである。原因は、環境が悪く道徳の水準が低く、常識の発達が遅れているからであって、多くの実例がある。
イエス団では、これ等の問題の解決のために夜学校、林間学校、日曜学校等を開設しその教養に努めて来た。しかし従来の設備と予算では充分な効果を挙げることは困難であった。それ故に部落改善の目的を達し得る施設のために祈っている次第である。

 児童の教化と技能の習得こそ真の部落改善となることを確信するものであって、五十年一日の如く努力している訳であり、近き将来において生活保護の必要なき改善を目標として努力することが、私どもの念願して止まざるところである。

 追記 内容的には別稿と思われるが、同じ原稿用紙で一枚紛れ込んでいた。青年武内の魂の目覚めの記録として重要であるので、参考までにここに添付しておく。

「先生は実に偉大なる引力をもっていて私を引き付けて、私の求道心を起こさせたのであります。それで私は、キリストを知る為に新聞を読む時間があったら聖書を読みたいと思い、毎朝五時に起きて聖書を読むこととし、創世記から読み始め一ヵ月後に黙示録の終わりまで一読したのであります。
聖書は解らないところが大部分であったが、私の頭を根本的に変えたのであります。私は私で私を駄目だと断定していたのに、聖書はそうではないことを示して呉れました。無学な労働者達がキリストの弟子となっているから、私でも救われると考えたのであります。私も主の祈りが出来る、人を愛することも出来そうだ、レプタの献金は出来るなど、次から次へと頭の中は進展し、キリスト信者になりたいという希望が起こったのであります。
それで朝早く起きて救われるために祈りました。その瞬間に心の中に変化・」

                 (2009年5月1日記す 鳥飼)




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